世の 中の ために 生きる 第二の 人生、その 喜びは 無限である
2022.02.17
私は、在日華人です。妻が 残留孤児で、22年前に 家族で 来日し、現在も 日本に 住んでいます。私は 中国の 河南の 安陽の 近くで 生まれました。私の 生まれた 故郷は 中国文化の 発祥地で、殷の 遺跡、甲骨文などは 国内外でも 有名な 文化遺跡の 名所として 知られています。私の 両親は 学校の 先生で、家庭の 濃厚な 文化的環境の中で、私は 幼い時から 音楽、美術などに 深い 興味を もっていました。
小さい頃、筆で 字が 上手に 書けず、硬い 竹の 板で よく 手を 叩かれました。小学校の頃には 宿題を する時も 筆を 使い、三年生からは 「大楷」 (中国書道の 中の 一つの 字体)の 書き方を 練習しました。書道の 基礎は その頃に 出来たと思います。
青壮年時代には、社会と 家庭の 事情で いろいろな 困難と 試練に 会い、念願の 芸術系の 学校にも 進めなかったです。その後 工場の 労働組合で 仕事をしましたので、筆で 標題を 書いたり チョークで 黒板に ニュースを 書いたりする 機会が 増え、もう一度 筆を使う 機会に 恵まれました。また 靴の 工場で 靴の 設計の 仕事を しましたので、そこで 切り絵の 基本となる 小刀の 使い方と 切り方を 学び、腕を 磨いてきたと思います。
日本に 来て 四か月後、私は、靴の 工場で 働くことになりました。日本語が 分からなかったため、体力的な 仕事にしか 就けなかったです。仕事は きつかったのですが、誰かに 頼らず 自立できたという意味で、気持ち的には とても楽でした。しかし、好奇心旺盛な 私は このような 単純労働に 満足して いられませんでした。私は、工場で 要らなくなった 紙を ゴミとして 処分しているのを 知り、工場長と 相談し、その 処分する 紙を もらい、皆さんが お茶を 飲んだり お話をして
休憩したりしている 午前と 午後の 時間に、私は 一人で 隅っこで 静かに 筆の 練習を しました。休みの 日には 家で 新聞紙を 使って 筆の 練習を しました。このような 練習は 十年続きました。同時に 私は 東京書道院の 通信教育を 受講し、一年後には 合格証書を もらいました。長い 時間 かかりましたが、私の 書いた 字は ついに 同僚たちにも 認めてもらえるように なりました。工場に 勤めていた時には、社長の 家の 仏前に 飾る 仏像の 絵、工場の 事務所に 飾っている 掛け軸の 「商売繁盛」という 字などを 書いてあげました。
2006 年に 私は 健康等の 理由で 66 歳をもって 工場を 退職しました。中国と 日本で何十年間も 多忙な 毎日を 過ごしてきた 私にとって、家で することのない 日々を 過ごすことには なかなか 慣れなかったです。ちょうど その時 友人から 兵庫県帰国者支援の会を 紹介してもらったので、その 交流活動に 少しずつ 足を 運ぶように なりました。その後 交流活動は ますます その幅が 広くなり、活動を 通して 知り合いも たくさん 増えました。私の 趣味も だんだん 増え、何十年も 忘れていた 音楽の 趣味も 復活しました。中国の 二胡、ハーモニカは 私が 青少年時代に 好きだった 楽器で、それをもって 演奏したり 表現したりすると とても 楽しく 喜びを 感じます。
また 切り絵の 話に 戻りますが、ある日 神戸南京町で 買い物をして 歩いていたら あるお店の 買い物袋に 可愛い 女の子の 絵が 印字され、それが とても きれいに 映っているのを 偶然 見かけました。その 瞬間 私は その絵を 切り絵にして 紙に 貼ったら もっと 楽しいのではないかと 思いました。 切り絵にして 紙に 貼ってみたら、想像を 超えるくらい その 美しさは 増しました。
その後、私は 自分独自の 書道の 理論と 腕に 基づいて 福、寿、蝶々などの 絵を 描きました。
また 十二支、人物例えば孔子、関羽、紅楼夢(中国の 古代の 名作)の 十二の 女性たち、慈悲の 女神、「嫦娥奔月」(注:中国古代の 物語)の 中の 人物を 表現して、その 表現の 幅は ますます 広くなりました。
中国への 里帰りの 際にも 書道展示会などに 足を 運び、書道界、切り絵界の 有名な 人の 作品に 触れてきました。中国の 太原というところを 旅していた時、知人の 紹介で 中国民間芸術家の 辛先生の 家に 訪問する 機会に 恵まれました。その時、長さ約6メートルにもなる 「清明上河図」の 辛先生の 作品も 見せていただき、 切り絵に 関して 色々と 意見を 交わすことが できました。辛先生の 切り絵の 芸術は 祖先から 代々 受け継がれたものでした。
老後になって 偶然の 発想から、また 私の 何十年間の 靴工場で 鍛えられた 小刀の 使い方と 腕で 私は 自然と 中国の 古典名作、神話伝説の 人物 また「守株待兎」、「濫竽充数」(注:中国の 成語故事)等の 故事成語を 描くように なりました。毎年 お正月になると、私は 自分の 作品を ハガキにして 近隣の方たち、日本語教室の 友達、先生たちに 送ったりします。これまで 私の 作品は、帰国者の 内部刊行物、有隣通信、外大通信などに 掲載されました。「中文導報」という 新聞は、日本全国の 華人たちに 贈る 新年の 挨拶に、かつて 2 回も 私の「星」を 題材とした 作品を 使いました。新聞社から 電話で お礼を 頂いた時は とても 嬉しかったです。また 交流の 一環として 私は 2回 も 小学校に 招かれ、 切り絵について 話をし、その場で 切り絵の 切り方を 披露しました。日中友好協会の 主催と 協力の 元で、2009 年から 2013年までの 間、加古川などで 書道と 切り絵の 個人展を 4 回も 行いました。一昨年と 去年には 居住地域の 老人会の 推薦で 姫路市と地域の 高齢者作品展に 出展することが できました。その時の 作品は 慈悲の 女神、「嫦娥奔月」、三国誌の 中の 関羽でした。2013 年には、中国帰国者定住促進センターから 初めて 中国帰国者書道展審査委員に 選ばれ、私の 作品「百彩蝶及蝶図」の絵は 中国と 日本の お客様から 賞賛されました。去年 また 私の 書道作品「清風佛両袖 懐明月満一」を中国帰国者書道展に 出展することができました。
展示会で お客様たちが 私の 作品を 鑑賞するのを 見て、また 学校で 子どもたちが 私の 切り絵作品作りに 夢中になっているのを みて、また 神戸、大阪の 日本語教室で 切り絵を 披露する際に 人々の 感動の つぶやきが 聞こえてくる時、私は 最高の 喜びと 幸せを 感じます。記憶力も 徐々に 衰えていく 一人の 高齢者にとって、これからも 続けて 努力し、学び、創作を 続けることは 孤独感と 無力感から 解放されることへと 繋がっていくのではないかと 思います。一つのことに 夢中になり 没頭している時は 年齢を 重ねていることも 忘れていきます。
日中友好の 立場から 見ると、書道、切り絵は 民間の 草根交流の 懸け橋と 道具になると思います。私は 引き続き 努力し、皆さんに より良い 作品を 提供していきたいと 思います。「世の中の ために 生きる 第二の 人生、その 喜びは 無限である」という 言葉が あるように・・・。