相互理解

白承豪氏インタビュー(弁護士)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

白承豪氏インタビュー(弁護士)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

 今回お話を伺ったのは、神戸セジョン外国法共同事業法律事務所に所属する白承豪(はく・しょうごう)弁護士。1962年3月に韓国・ソウルで生まれ、1974年に家族とともに沖縄に移住してきた。それ以来50年近く日本で暮らしている。

 5歳の時に交通事故で右腕を失い、沖縄に移り住んだ当時はひらがなの読み書きさえできなかったという。こうした障害と言葉のハンデを乗り越え、1990年に司法試験に合格。以来弁護士として活躍を続けている。そして2017年4月、外国籍弁護士として初めて兵庫県弁護士会会長に就任、その後の2019年4月に日本弁護士連合会(日弁連)の副会長にも就任した。外国籍弁護士の就任は、メディアでも大きく取り上げられ、注目を集めた。

 弁護士としては異色の経歴を持つ白弁護士。外国籍初の日弁連副会長を経験したこともあって、在日コリアン社会からの期待も大きい。第一線で活躍する白弁護士に、これまでの経験、そして外国人弁護士として活動することへの思いについて話を伺った。


沖縄で韓国人として生きる

――お生まれはどちらでしょうか?

生まれはソウル市内の広壮(クァンジャン)洞。ウォーカーヒルホテルってご存知ですか?昔米軍の将校たちが使ってたホテルがあって、朝鮮戦争後そこに建てられたすごく有名なホテルなんですけど、そこから近い場所です。

父親は建築業をやってました。(広壮洞の)近くにキリスト教の神学校があるんですよ。長老派の神学校で立派な建物なんですけど、その建築を父親が請け負うってことで、そこに移り住みました。

――ご両親はクリスチャンだったんですか?

母親がクリスチャンでした。基本的に私の自己形成にはキリスト教が関わってくるんですけど、それは母親の影響が大きかった。

――ご兄弟・姉妹はいらっしゃいますか?

姉と妹がいます。

――お姉さんと妹さんも一緒に日本に来られたんですか?

1974年に一緒に沖縄に来ました。父親だけ先に沖縄に来ていました。父親が来たのは1972年で、当時沖縄はまだアメリカが統治してた時代だったので、アメリカのビザを取得して沖縄に渡りました。その2日後に(沖縄が)日本に復帰したんですよ。当時日本に外国人が働きにくるっていう制度がなかったんで、2日遅れてたらたぶん父親も沖縄に入れなかったと思います。

――お父さんはそれを分かっていて、いち早く沖縄に来られたんですか?

いやたぶんわかってない。元々は伯母さん夫婦かな、韓国語で言ったらイモブ(이모부、伯母の夫)。伯母さんの夫が宣教師だったんですよね。沖縄に宣教に来ていて、そのイモブから招待を受けて父親も沖縄に来ました。

――お父さんは建築の経験もあるということで日本に来られたんですね。

そうです。(日本)復帰当時、沖縄にいた外国人に対して今でいう定住ビザ、昔(入管法に)「4-1-16-3」っていう在留資格があったんですよ。それが貰えた。それで父親が沖縄の建築会社に契約して入りました。父親が沖縄で働くということで、私たちもビザをもらえた。

――当時沖縄に韓国人が集まるコミュニティはありましたか?

沖縄は基本的に、戦争の時にほとんど(沖縄にいた)朝鮮人っていうのは兵隊として、日本軍の一員として連れてこられて、戦争に従事してた。ちょうど当時地上戦があって、そこでバタバタとみんな亡くなったんです。だからいわゆるオールドカマーっていうか、戦前から沖縄に定住していた人はほとんどいません。

その後アメリカの統治が始まりますよね。アメリカ軍の基地は当時韓国に多くありました。龍山(ヨンサン)には航空隊の基地とかがいっぱいあった。そこに駐屯していた米軍の軍人が、韓国で知り合った韓国人の奥さんを連れて沖縄に来るんですよ。だからそこでできたコミュニティっていったら、米軍の奥さんたちがメイン。私たちみたいに来たのはうちの家族と伯母の家族と、あと数えるほどやけど2、30人くらいかな。

――その伯母さんご夫婦の教会っていうのは韓国人向けの教会でしょうか?

韓国人向けの教会だけど、そんな何十人もいるわけではなかった。沖縄が日本に復帰した最初のころは、建物も教会っていうよりもどこか場所を借りてやってました。(伯母さんの家族は)その後ハワイに移住して、そこで宣教師の仕事に従事して亡くなった。家族たちもみんなハワイに行っちゃった。だからその家族を頼ってきた私たちだけが結果的に沖縄に残ることになりました。

――なるほど。コミュニティとしてはかなり小さいんですね。当時沖縄で日本人との付き合いはありましたか?

日本人との付き合いもあんまりなかったんじゃないかな。後になって教会ができて、ほかに宣教師が何人か来たんですよ。そこにさっき言った米軍の軍人と結婚して沖縄に来ている韓国人の奥さんたちがいっぱい集まってくるようになって、基本的には私たちもその中にいました。

あと民団(在日本大韓民国民団、旧在日本大韓民国居留民団)もあるのはあったんですけど、僕含めて2、30人ぐらいしかいなかった。姉もやってましたし、僕は青年会の会長もやってました。そのくらい人がいなかったんですよね。

――民団があった一方で、総連(在日本朝鮮人総聯合会)は沖縄になかったんですか?

たぶん総連の支部はなかったはずですね。当時は韓国から日本に移住しに来る人が少なくて、韓国から日本に行く人に対して、「(日本に)行ったら総連に気をつけろ」みたいなこと言われるみたいなんですよね。その当時(日本で)は総連のほうが力が強かった。だからまあ「会うなよ」とか「気をつけろよ」みたいな、そういう感じで。

実際に(総連の人が)一度家に訪ねて来たことがあって。スイカ持ってきたんでみんな食べていいかどうか悩んだんやけど(笑)。それで父親が対応した。僕も隣の部屋で聞いてたんだけど、おそらく北に行こう、平壌に行こうっていう誘いの話やったと思います。父親はちょっと軍隊にも行ってて、ある程度朝鮮戦争の経験があったし、北に対するそういうの(反感)もあったんで、逆にソウルのほうが立派になってるからソウルに行こう、みたいな話をして。まあそれぐらいだったかな、(総連と)接触があったのは。その時は内地から(沖縄に)オルグに来るみたいな、そういうことやったと思います。

――1970年代の在日の状況とは少し違っていたんですね。沖縄は。

だって直前までアメリカの統治下にありましたからね。アメリカの統治下にある間は総連も入ってこれない。あと当時はパスポート持ってないと入ってこれなかった。沖縄の那覇空港の直行便がなかったんで、福岡経由で行った記憶があるんだけど。今でもそうやけど僕はその時(の沖縄)を見てきたからどこかで沖縄は日本じゃないと思ってるっていうか。

それと沖縄で差別とか、韓国人やからという理由でどうのこうの言われたことはなかったですね。言葉通じない韓国人であってもそんな石投げられたりもしないし。僕は言葉が全然わからないまま学校入ったんですよ。その時はみんな不思議そうに僕がいる教室に来てましたね。

――日本の小学校に入学(編入)されたのは小学校6年生の頃だったとうかがっています。

韓国は二学期制なんです。日本は三学期制で、僕が来たのは1月なんだけど、小学校6年で、むこうの卒業式だけ残してきたんですよ。日本語もわからず来たんですけど、父親が小学校と交渉して、三学期だけでも入れて、もし(勉強に)ついていけなかったらもう一度6年生やってもいいから、とりあえず入れてくれって頼んだみたいです。それで(小学校に)入れてもらって、結局そのまま卒業できました。

――なんていう名前の小学校だったんですか?

神様の神に原っぱの原。神原小学校。中学校も神原中学校です。家から歩いて数分のところにありました。那覇市内にあって、あの時1学年500人ぐらいおった学校でした。

――小学校6年生の三学期から入って、2ヶ月で卒業できたんですね。

そうです。でも中学入ってからは全然わからなかった。それでその中学校に、伯父の家族の僕より年1つ上のいとこがいて、たしか同じ学校の同じ学年に入ったんちゃうかな。彼は日本語できてたから、何かあったときには先生よりは彼に相談してました。

――沖縄に来る前は韓国の小学校に通っておられたんですよね?

韓国は当時国民学校で、私が通ってたのは広壮国民学校でした。僕、5才の時に交通事故で2年ぐらい入院してたんですよ。だから幼稚園は行ってなくて、退院して国民学校入ったのが二学期ぐらいになってから。入院してる2年間の間、病院でやることないから親戚のお姉ちゃん達が来て勉強を教えてくれたのかな。(国民学校に入るまでに)読み書きと算数、算数は掛け算まで全部できてたみたいです。そこでもとりあえず入って(勉強に)ついていけなかったらもう1年やるけど、ついていけたらそのまま進級する。それでついていけたのでそのまま上がっていった。

――2年間入院されたってのは、相当大きな事故だったんですね。

大きな事故でした。右腕切断して、右足も皮膚が擦られた。300メートル(車に)引きずられたって言ってたから。そのとき記憶がちょっと残っていて、(事故の後)車の下に横たわってた時に人が覗きこんでた。それと救急車なんかその当時なかったから、運転してた人が自分の車に乗せて病院に連れて行ったんですけど、それでパッと気がついたら助手席にいて。小さい時トラックに乗ることに憧れてたから、俺トラック乗ってるやん、みたいな記憶があります。あと病院の手術台の上で、父親が医者に「自分の右腕を私の右腕につけてくれ!」って大きな声を出してたのを聞いたのも覚えています。

――学校の授業について行くのは苦労されましたか?

算数、数学は足し算引き算とかやから見たらわかるじゃないですか?だからそれはできてたけど、それ以外の国語とか社会とかは質問の意味もわからない。そもそも字が読めなかったから。それまで漢字の勉強もしたことなかったんですよ。

一学期の中間試験で席次が出たんだけど、とにかく(できたのは)数学だけ。あと音楽の授業で記号の読み方とかありますよね。「だんだん強く」はクレッシェンドとか。あれが(韓国の)小学校で習ってたんで、テストではそのままハングルで書いて出しました。(先生が採点するときに)それが日本語にするとどういうことやっていうのをそのいとこに翻訳してもらった記憶があります。それで先生が丸つけてくれて点数もらえたんですよ。

――韓国語で解答した内容が合ってたら、先生が丸つけてくれたんですね。じゃあ数学と音楽だけはある程度できたと。

そうですね。席次見たら500人中470番ぐらいで、めっちゃうれしかったんですよ。「俺より下が30人くらいいる。いけるやん!」みたいな(笑)。僕は楽観主義っていうか、前向きな気持ちでずっと生きてるから。それでどんどん成績上がっていって、中学校卒業する時には50番以内くらい入ってたんじゃないかなと思います。中学校1年の時はずっと成績悪くて、2年になってくらいから徐々に上がっていった。

やっぱり一番苦手だったのは国語と社会ですね。だから中学校で学ぶ日本の歴史とか、そのあたりは全然知識として残ってない。国語の時間で今も覚えてるのは、授業でセンテンスずつ音読させるのあるじゃないですか?前の席から順番に読んでいくやつです。それいつも飛ばされてました。どうせ読めないからって理由で。

――成績も上がってきて、そろそろ高校受験の時期に差し掛かってきますよね。

あの当時、那覇高校が一番勉強できるところやったんですよ。それで50番以内入ってたから那覇高校に受験をしようって話をしてたんですけど、中学1年、2年の内申が良くないから結局推薦できひんって言われて。那覇高校の次、2番目は首里高校というところでした。でもそれも(内申の理由で進学が)厳しかった。最終的に3番目の小禄高校っていうのが那覇空港のすぐ近くにあったんですけど、そこに入りました。何人かは一緒に受けたけど落ちて浪人した子もいます。

高校に入って半年、二学期の頃やったと思うんですけど、伯父さんたちの家族がハワイに移住するって話が出て、うちの家も一緒に行くことになりました。それでアメリカに行くんやったら英語勉強しないといけないってことで、小禄高校を一度休学したんです。休学して1年間、嘉手納基地近くにミッションスクールみたいなところがあったんですけど、そこに通いました。そこはもう完全にアメリカ人がやってる学校なので日本語できる人も全然いなくて、朝から晩まで英語。生徒はそんなに多くなかったのでスクール形式じゃなくてほとんど学習塾形式でやってました。1人ひとりにテキストが渡されて、それを自分で読んで先生に質問したりしながら単位を取っていく。いとこと一緒に通ってました。

――白弁護士は結局ハワイに行かず、沖縄に残ることになりますよね?

そうですね。結局ハワイ行きはなくなりました。(ハワイ行きを)辞めた理由はわからない。父親が全部決めてたんだけど、結局そのまま沖縄に住もうかっていう話になったんでしょうね。

――じゃあその後は英語の勉強をやめてさっきの小禄高校に戻るんですか?

そうです。高校1年の一学期だけいたので、(1年間休学をしたのち)また高校1年の二学期から戻りました。(高校に入ったときの)同級生の子らは先に進級して2年生になってますね。でもちょうど僕が戻った時に神原中学校で一緒に遊んでた子が何人か一浪して入ってきたから、彼らと一緒の学年になったんですよ。

――休学して留年になった白さんと、浪人組が一緒の学年になって友達になったんですね。

そうです。それでそのまま戻って。(休学して)何が一番良かったかっていったら英語かなと思います。1年間英語ばっかりやってたから。

――小禄高校を卒業したのは19歳ということになりますか?

私早生まれなんですよ。昭和37年(1962年)の3月なんですけど、卒業したのが81年。19になってるかなってないかってくらいですね。

10年かけて司法試験に合格する

――その後大学は?

琉球大学に。現役で入りました。琉球大学入ったのもいろいろあって、中学校で一番よく遊んでた子が司法試験受けるとか言い出したんですよ。私は司法試験がなんなのかあまり分かってなかったけど、小さい時から父親にどっちみち体悪いし、日本社会で就職は難しいやろうから、頭使って稼げるようになんかせえみたいなことは言われてました。司法試験を受けて弁護士になるというのも、父親が望んでたことです。それで自分も受けようと思った。

それで司法試験受けるためには早稲田に行かなあかん、早稲田に行こうって話をしてたんですよ。当時早稲田ってなんなのか全然わからなかったのに(笑)。でも進路担当の先生に相談したら、今の成績なら二浪しても無理って言われた。じゃあ琉球大学やったらどうですかって聞いたら、琉球大学も現役ではたぶん無理やから浪人覚悟で受けてって話になった。あの当時共通一次試験(大学共通第一次学力試験)が導入されてまだ2回目とか3回目くらい。1000点満点で、琉球大学は国立だから最低でも650とか700点ないとだめ。自己採点したら540点くらいしかありませんでした。

――それで通ったんですか?

そう、奇跡(笑)。普通やったらみんな自己採点して、一次でこの点数出たら二次試験受けないんですよ。でも当時琉球大学って二次試験が小論文と英語だけやった。だからむちゃくちゃラッキーで。

英語はほとんどできました。小論文は漢字が苦手だったけど、自分の思いを書くみたいな内容。それで(二次試験)受けたら合格しちゃったんです。大学入ってから指導教授に聞いたことがあって、先生が言うには当時琉球大学って共通一次試験の成績も見るんだけど、それこそ今の多文化共生じゃないけど、そういう何か持ってる子とか一芸に秀でた子を入れると。それが1つの判断基準としてあったみたいですね。むちゃくちゃ恵まれてる人生を今まで生きてきてるんだけど、それが最たるものでした。現役で合格してるのは僕だけ。

小禄高校って昔は良かったんだけど、その当時ちょうど昭和薬科大附属高校っていうのができてたんですよ。そこが進学校みたいな感じで、優秀な人をたくさん引っ張り込んでた。そこにみんな通ってたから那覇も首里もだんだん優秀な子がいなくなって、小禄なんか就職予備校みたいになってたんですよ。だから僕の友達とか内地に集団就職に行ってる子が多かった。大学にも行かずに。

――はじめから司法試験に合格するために琉球大に入って、そこから一直線に進んでこられたんですね。

そうですね。法学部に入ったんですけど、大学入ってオリエンテーションのときに、自己紹介で「司法試験目指して入りました」みたいなことをみんな言ってました。僕も同じように言いました。でも半年ぐらいしたらみんな疲れ果てて勉強やらなくなる。大学受験でみんな疲れ果ててしまうんですね。僕はそんな勉強してなかったし、予備校も親が行かしてくれへんかったから行ってない。それで(大学に)入ったからエネルギーめちゃくちゃ残ってたんです。

これも恵まれてるんだけど、僕が住んでいた団地みたいなところがあって、たまたまその団地に琉球大学の法学部で司法試験勉強してた先輩がいて、その人が4年生の時に現役で択一試験通ってたんですよ。司法試験って択一試験、論文試験、口述試験があるんだけど、択一試験で当時4万人ぐらいが受けて通るのは3000人ぐらい。琉球大学で現役で択一試験通ったのはその先輩が初めてだったんです。そんな人が私の家の横に住んでたから、ずっとそばで勉強やってる姿とか見て学んでましたし、研究室にも入れてもらったりしました。学生のために自分の研究室を解放してくれた指導教授もいました。当時司法試験の予備校がなかったんですけど、(その先生が)予備校の教材を自分の研究費で買って提供してくれた。

僕が大学入った頃、復帰後に日本の司法試験に通ったのは2人しかいなかったんですよ。その(司法試験に)通った先生が琉球大の出身だったから、(司法試験の)勉強をするサークルである「究法会」があったんですけど、そのサークルの生徒たちに色々勉強を教えにきたりとか、終わった後に泡盛飲ませてくれたり、おいしいもの食べさせてくれたりしました。あの当時の危機感っていうと、新しい司法試験制度になって琉球大学の合格者が少なかったから、どんどん地元の法曹関係者がいなくなるやろうってことで、琉球大学で勉強する学生に対してとにかく応援してくれるような体制を取ってた。

――白弁護士は司法試験に合格するまでどのくらいかかりましたか?

その先輩が択一(試験)を大学4年で通ったんで僕もそれを目指してました。大学2年の時やったか、父親がガンになりました。父親は厳しい人だったんで病院に見舞いに行っても「そんな時間あったら勉強せえ」って怒るような人。ちょうど卒業の年に亡くなりました。

択一の試験っていうのはだいたい5月の第2週とかにあります。卒業して5月にそれを受けたら通っちゃった。択一受かっただけでヒーローみたいになるんです。合格してから彼女もできたりして遊びまくった。そしたら翌年は全然勉強しなかったから落ちてしまいました(笑)。その次の年以降、択一はもう満点に近い点数でいつも通ってたんですけど、2回目の論文試験でずっと落ち続けました。

(論文試験は)7教科あって、それを3日間にわたって受けます。論文(試験)は書くのがやっぱり苦手でしたね。7教科のうち法律科目が5つあって、2つは教養科目。法律科目はほぼいつも合格判定もらってたんだけど、教養にいつも足引っ張られて落ちるんですね。総合成績で合格者が500人いて、残りの500人にはAっていう評価をくれるんですけど。A評価を確か2年か3年ぐらい続けてもらってたかな。5回目受けたときには総合成績がAだったのがCに落ちるんですよ。

これはもうどうしようってなった時に、大学の1つ後輩で東京に行って勉強してた子がおったんですよ。彼といつも連絡は取っていたんですけど、沖縄では合格発表が見れないから彼に確認して電話してくれるように頼んだ。そしたら「受かってました!」って連絡が来てめちゃくちゃ喜んだ。でも実はそれ、私じゃなくて彼が受かったってことやったんです。それにすごいショック受けた。色々話して、やっぱり教養の2科目が足引っ張ってたから思い切って変えようということで彼が勉強してた本を全部もらって科目を変えたんですよ。そしたら翌年やっと合格しました。

――司法試験は全部合わせて何回で合格したんですか?

計算がややこしいけど、18で大学入って28で通ったから10年かかったっていう認識です。

弁護士としての活動

司法試験合格してから2年は修習、実務修習っていうのを受けます。僕が合格した年は、古い(形式の)司法試験の最後の年でした。合格者の数は4万人受けて500人なんで、2%とか3%とか言われた時代で、その最後の年に僕が通った。翌年からは合格者を100人ず増やしていったんですよ。しかも那覇修習ができるようにもなった。要するに(合格者が)100人増えた関係で修習地を増やしたわけです。

僕が合格したときには那覇修習がなかったから、もし1年後やったら多分那覇で(修習)やってました。だからこっちに来ることもなかったと思います。修習地は一応自分で希望出せます。僕は神戸修習で希望を出して通りました。大学の先輩が神戸地裁で裁判官やってたんですよ。それで担当の人に「なんで神戸なの?」って聞かれたから、「(神戸に)先輩がいるから」って答えたら、それで通りました。

2年間神戸で修習した後、勤務弁護士として3年間大阪で働きました。当時神戸にはいなかったんですけど、大阪は何人か韓国関係の仕事をやってる在日の弁護士がいて、そこで働くことになりました。その先生は大阪でずっと差別と闘いながら弁護士になった人。僕は沖縄で差別も知らずのほほんと生きてきたから、毎日怒鳴られてきつかった。

そうしてると地震が来ました。その頃神戸戻るつもりやったんですけど、神戸ぐちゃぐちゃになって家も駄目になった。すぐ天王寺の方に疎開しました。震災後1年経って徐々に落ち着いて、平成8年の4月1日から神戸に戻りました。そのときの事務所っていうのが、僕が修習でお世話になった神戸の先生がいるところで、自分の事務所に机置いとくからそこで勝手にせえって言ってくれた。こういうの「ノキ弁(軒先弁護士)」っていいます。机借りて、電話も事務所の電話使って、雇用はされてないから給料は入らないんですけど。すごくいい先生で、今でも付き合いがある。

そこに4年ぐらいおったかな。ちょっと広いところ移りましょうよって先生に言ったら、自分はもう動くの嫌やからお前が独立しろって。それで独立しました。

――白弁護士はご結婚もされているんですよね。結婚されたのはいつごろでしょうか?

結婚は修習2年目の時です。妻も韓国籍ですけど、お父さんが米軍の関係で家族で沖縄に移民してきたんです。

――奥さまも沖縄にいらっしゃったんですか?

そうです。同じ団地に住んでました。教会も一緒に行ってました。大学はアメリカの大学に行くって言って、テキサスに行ったんですよ。でも兄妹が4人いて長女やったんで、ほかの兄妹もアメリカ行かなあかんということで、学費が足りひんから呼び戻されたらしいです。領事館で働くってことで沖縄に戻ってきて、その時に付き合いました。ちょうどその年に私は司法試験受かりました。

司法試験に合格して韓国のテレビ番組出たんですよ。「11時に会いましょう」っていう、日本で言ったら徹子の部屋みたいな感じの番組があって。そこに僕と僕の母親が一緒に出ました。日本の司法試験に合格した韓国人ってことで。女性週刊誌にも取り上げられてインタビュー受けたんですけど、そこで「彼女いますか?」って聞かれて「いません」って答えたんですよ(笑)。勉強してるのに彼女いるって言ったらあかんって思ってそう答えた。そしたら僕の妻の友達が記事見て「あんた彼女いないって言われてるよ」って(教えた)。帰ってきて妻にボロクソに言われました(笑)。

――独立してから経営が安定するまで大変だったかと思われますが、その間いろんな仕事もされてますよね。

僕はお金をいっぱい儲けて云々というよりも、とにかく弁護士として仕事ができればいいという感じやったから、委員会活動とかもけっこうやりました。人権擁護委員会っていう、そこをずっとやってたり。韓国籍の弁護士として人権問題にたずさわるような感じで。ほかにも裏方みたいなことはちょこちょことやってます。従軍慰安婦弁護団が韓国に調査に行く時に一緒に通訳したりとかも何回かやりました。

――人権擁護委員会というのはどういうふうに選出されるんですか?やってくれないかというような依頼が?

いや、もう自分で手上げれば誰でもなれます。別に人数の制限があるわけではありません。毎年の年度初めに決めます。弁護士の中では人権擁護委員会ってあまり人気がないんですよ。人気があるのは消費者委員会とか刑事弁護委員会とか。そういうのはそこで勉強すれば仕事に役立つ。刑事弁護委員会だと、刑事事件やる時に弁護の仕方とか教えてくれますし、消費者委員会っていうのはあの当時自己破産、債務整理だの過払いだの、今は大分落ち着きましたけど、そういうのに関するノウハウを教えたりします。自分の仕事に直接役立つ委員会っていうのは人気が高いんです。

人権擁護委員会では、刑務所にいる人たちが担当の刑務官に不当な扱いを受けたり、雑誌の購入が不当に制限されたとか(そういった問題に取り組むことが多い)。僕が経験あるのは性同一性障害の人が罪を犯して刑務所に入ったんだけど、その人は性別適合手術も受けているんですよ。でも戸籍変えられなかったんですよね。女子刑務所か男子刑務所かに入れる判断基準は戸籍上の性別なんですよ。彼は(戸籍では男性だったので)男性として男性刑務所に入るんですよ。でも性自認は女性なので男性刑務所に入れるのは不当じゃないかっていうことで調べに行ったり、弁護士会として警告を出したりして。それがきっかけに、刑務所内の性同一性障害の人に対する対応が変わるようになったりもしました。

――なぜその人気のない人権擁護委員会を選んだんですか?

最初に入ったところがたまたまそこっていうのもあったんですけど、弁護士の使命として「基本的人権を擁護し、社会正義を実現すること」っていうのが弁護士法の第1条に定められてるんです。それは理念的な話だけど、言ってることは正しい。じゃあやるしかないと。

――兵庫県弁護士会の役員にもなられますよね?

2003年に兵庫県弁護士会の副会長になりました。(役員選出のしくみを)ざっくり言うと、それぞれ輩出する母体というか、選出するグループ、派閥があるんですよ。その派閥のうち、人権とかに関心を持ってる先生方が作ってる派閥があるんだけど、たまたまそこから候補者が出なかったんです。僕はその派閥に入ってなかったけど、じゃあ僕が出るって言ったら皆さん、「白さんやったらいいんじゃない」って言って推してくれて副会長になったんですよ。それが2003年。その後に人権擁護委員会の委員長もやってたんちゃうかな(2010年に兵庫県弁護士会人権擁護委員会委員長に選出)。

――外国人が役員を務めることに対して当時異論が出たりしませんでしたか?

目の当たりにするものはなかった。裏でなにか言われてるかもしれないけど。あと人権擁護委員会をずっとやってたっていうのがほかの弁護士の先生方からすると、みんなが嫌がることを率先してやってるからあまり批判できないという意識があったかもしれないですね。あいつは韓国人やしっていうので文句言われたこと一度もないですよ。

――副会長の任期は?

1年です。

――その間委員会の仕事も続けておられましたか?

委員はずっと続けてます。その後加古川刑務所の視察委員(加古川刑務所刑事施設視察委員)にもなりました。

――独立して現在の「神戸セジョン外国法共同事業法律事務所」という名称になったのはいつごろでしょうか?

2012年にここの事務所の名前を変えたんだけど、これは韓国の黄文錫(ファン・ムンソク)先生が合流したのをきっかけに名称を変えました。「外国法共同事業法律事務所」って名前をつけないといけないんですよ。そういう決まりがあって。(黄文錫先生は)韓国の資格を持って日本の弁護士会に登録しています。仕事に制限があって、韓国関係の仕事しかできないし法廷には立てない。代理人になれないんですよ。だからその先生はここ(=日本)で相談を受けて韓国の裁判所に行くんです。我々は逆に韓国の裁判所の法廷には立てません。受ける相談の中には韓国で(裁判を)やらないといけないものがあるので、それは黄先生が担当します。遺産分割とかが多いです。

――遺産分割は、例えば亡くなった方が韓国にも日本にも財産がある場合とかでしょうか?

はい、そうです。相続は亡くなった方が被相続人って言うんだけど、その人の本国法がなにかによって適用される法律が変わるんですよ。だから例えば在日韓国人でも、日本国籍に帰化した方が亡くなると日本の民法の適用になるんですけど、帰化せずにそのまま韓国籍で亡くなった方は韓国の民法で法定相続分とか決まる。相続人の範囲も変わってきます。こういうしくみは日本の先生方にしてみたらちょっと分かりにくいから、仕事をこっちに振ってくれることもよくあります。あとは民団とか領事館にも仕事の紹介がきます。

――白弁護士は2003年に兵庫県弁護士会の副会長になって、2017年に会長になりますよね。白弁護士以外で県の弁護士会の会長になった外国人はいないですよね?

いないです。副会長は何人かいるんですけど。

――(日本弁護士連合会)副会長も全国で白弁護士が初めてですか?

そうです。

――副会長も初めてだし、会長も始めて。まさに先駆者ですね。

全国47都道府県に弁護士会があって、私は兵庫県だけど全国で(外国人が)会長になったのは初めて。(外国人の)副会長は大阪、名古屋、福岡、神奈川とか、今どんどん増えているのでその人たちが今後会長になる可能性はあります。でもその人たちが全部日弁連(日本弁護士連合会)の副会長なれるかっていうと、いろいろルールがあって複雑で。なれる人もいるかもしれないけど。

――(兵庫県弁護士会)会長は、立候補制でしょうか?

立候補制。もしほかに候補者がいたら選挙して決めます。私のときはほかに人がいなかったから手挙げてなったんです。やるって言った時に、別にダメって言う人もいませんでした。

――2019年には日本弁護士連合会(日弁連)の副会長に就任され、ニュースなどにも大きく取り上げられました。日弁連の会長は1人だと思うんですが、副会長は何人いるんですか?

15人で構成されてます。全国でそれぞれの地域の代表として副会長になるんです。私は兵庫県なんで近畿の弁護士連合会から推薦を受けました。(近畿弁護士連合会では)毎年、この年はこの県の弁護士会から候補者出してくださいっていうふうに決まってるわけです。それが順番に回ってきて、2019年は兵庫県弁護士会が候補者を出す順番やった。

兵庫県から推薦する人を出すために(候補者が)1人やったら推薦できるけど、2人やったら選挙しないといけない。兵庫県内には1000人ぐらい弁護士います。東は尼崎、西はたつの、北は豊岡。全部回って選挙活動しました。それで僕が勝って、近弁連(=近畿弁護士連合会)から推薦を受けて(副会長に)なったわけです。各地域、九州とか四国とか、全国からそういう推薦を受けてくるブロックとあと東京、大阪、愛知の会長は副会長になる。大きいところやから。あと女性枠って2人女性が選ばれる。それで15人です。

――今後日弁連の会長をやるお考えは?

手挙げたらなれるかもしれないんですけど、選挙せなあかんし、資金もすごくかかります。お金があったらいつかやるかもしれませんね(笑)。

僕が兵庫県(弁護士会)の副会長のときも会長のときも、外国籍だからダメじゃないかって言った弁護士はいなかったけど、日弁連の副会長の選挙をしてる時は言う人いました。副会長になってからもニュースに大きく取り上げられたんですけど、ネット記事で批判してる人も何人かいます。もうボロクソ言われてますよ、うちの事務所とかも。私個人に対する批判以上にそういう外国人を選ぶ日弁連おかしいっていう批判の記事だったんですけど。

信頼を勝ち取り、少しずつ社会を変えていく

――先ほど差別体験を受けたことがないと話されてましたが、白さんの周囲で日本に来てこんな差別受けたとか、そういう話を聞くことはありましたか?

あんまりなかった。やっぱり沖縄だからっていうのがあるかもしれませんね。もし日本じゃなくて韓国にいたらたぶん司法試験も通らなかったと思います。沖縄に来て、周りの先生方、いろんな沖縄の方々が応援してくれたので勉強ができたところがかなり大きいです。学生の時、生活とか勉強を支えてくれたのは周りの先生方です。いまだに沖縄の人には頭が上がりません。

面白かったのは日弁連って世界の弁護士会とつながってるんですよね。僕はその時たまたま国際担当だったんで日弁連の代表として国際会議とかよく行ってたんですよ。今(日本では)「はくしょうごう」でずっと弁護士の仕事やってるんですけど、海外行くと「ペクスンホ」になる。パスポートネーム使わないとあかんから、ペクスンホの名前で日の丸つける。そしたら韓国の弁護士が来て「あなた何人ですか?」みたいなこと聞かれるんですよ。それで韓国籍で(日本で)弁護士やってるって答えたら、日弁連すごいなとか、開かれてるなみたいな、そういう反応するんです。

――韓国では外国籍者が弁護士になれるのでしょうか?

なれると思いますけどね。でも定住する外国人がそんなに(歴史が)古くないでしょう。よく日本で「じゃあ外国ではどうなんだ」って、なにかあると必ず外国と比較しますよね?裁判所の調停委員の問題(注1)も含めてなんですけど。僕はそれ、全然背景が違うと思ってるんです。日本に居る在日韓国人の立場っていうのはいわゆる「外国人」とは少し違うじゃないですか。国籍と民族性っていうのは全く別のもの。単に国籍だけで判断するっていう日本の基準自体が曖昧だと考えています。今本名で帰化が認められてますよね。昔は(本名で)帰化できなかったから、名前だけで(日本国籍か外国籍か)判断できたけど、今は名前だけで判断できない。以前裁判所に調停委員の推薦を受けたんですけど、裁判所から電話がかかってきて聞かれるんですよ。「先生、国籍変えました?」とか。

(注1)現在、多くの弁護士が弁護士会からの推薦を受け、調停委員・司法委員・参与員などの裁判所での仕事に就いているが、外国籍の弁護士は、法律上の要件を充たしているのにもかかわらず最高裁から採用を拒否されている。白弁護士が兵庫県弁護士会副会長在任中の2003年には、兵庫県弁護士会推薦の梁英子(ヤン・ヨンジャ)弁護士が韓国籍であるという理由で神戸家庭裁判所から家事調停委員の採用が拒否されるという事件があった。同問題については日本弁護士連合会編『外国籍だと調停委員になれないの?』(生活書院、2023年)に詳しい。

――国籍を変えたら調停委員になれるから?

そうそう。名前では判断できない。国籍が日本やったら大丈夫という考えなんです。神戸で修習してた子で、司法試験2番で通った人がいます。小中までやったかな、民族学校を出た人で。一回会って飲みながら話したことがあって。彼は裁判官志望です。本名で帰化しました。

――裁判所の調停委員のように国籍条項が明示されてるものもあれば、いわゆる「当然の法理」 (注2)で任用しないものもありますよね。それについてはどうお考えですか?

あれはどう考えてもおかしいでしょう、当然の法理なんて。法治国家なのに法律の根拠なく制限するのはおかしい。当然の法理で調べていったら色々面白くて、占領期にGHQが強権的に出した通達が根拠になってる。当時は冷戦の真っ只中で、共産主義の影響力を食い止めるために法律なんか作ってられるかって出した通達がいまだに残されてて、それが今にいたるまで守られてるんですね。

地方参政権に関しても続けて声を上げるべきやと思います。地方参政権と紐づけされている法律っていっぱいあるんですよ。地方参政権があるかないかで、この資格認めるとか認めないっていうのがある。

実は前に法務局の人権擁護委員なろうと思って推薦受けたら断られたことがあるんですよ。おかしいでしょ。人権擁護委員なのになんで国籍で差別するんやって聞いたら、結局法律で紐付けられてるんですよ、地方参政権で。だから国政までいかなくても、地方参政権くらいは認めるべきなんじゃないかと思ってます。

(注2)「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使、または国家意志の形成への参画にたずさわる公務員となるには日本国籍が必要」という法務省見解のこと。

――初めて外国籍の弁護士が日弁連の副会長に選出されるということで、在日社会からの白弁護士に対する期待も大きかったと思います。

僕は在日韓国人の代表として日弁連の副会長をやってるわけではないんですよ。僕のモットーとして今までやってきたのは「別に外国人がやっても普通でしょ」っていう理由からです。別に外国人がなったからといって日本社会に害を与えるものじゃないし、むしろよりいろんな視点から日本社会が良くなるためにものが言える人たちじゃないですか。だから在日韓国人社会を代表して会長になるとかっていうのはまったく思ってないんです。

――逆に言うとそういうスタイルが後に続く人にとってもいいかもしれないですね。

そうしないと後輩たちの道を閉ざすことになってしまう。私が外国人の差別問題のみを解決するために日弁連の副会長になって、在日の人権がこれだけ抑圧されてるってことばかり主張していたとしたら、たぶん弁護士会の中でのけ者にされますよ。次に後輩たちが(同様の役職に)なりたいって言っても多分なれへんと思います。とにかく今の席は次の人にも置いとかないといけない。日本の弁護士から信頼されて選ばれたんやから、まずは弁護士会のために貢献できる働きをする。

日本社会のどこの組織もそうだけど、前例っていうのを大事にするじゃないですか。だから前に韓国籍でこういう人がいて、副会長とか会長を務めました。それも組織のために与えられた職責をきちんとやりました、と。こういう実績を残して信頼を勝ち取っていかないといけないと思ってます。社会の意識もそれで徐々に変わってくるはずです。今、全国の弁護士会で(外国籍の)副会長がどんどん増えてきてます。そういう流れで会長もこれから出てくるんじゃないかなと期待してます。