相互理解

大川ヘナン氏インタビュー(大阪大学大学院博士課程)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

大川ヘナン氏インタビュー(大阪大学大学院博士課程)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

 1990年の出入国管理及び難民認定法(以下、入管法)改定以降、いわゆる「ニューカマー」と呼ばれる外国人の定住が進むにつれ、外国にルーツを持つ子どもや若者が日本の学校に入学する光景がみられはじめた。しかし、それから30年以上が経過した現在、ニューカマー外国人の教育達成はいまだ大きな課題を抱えている。

 かれらの教育をとりまく問題をみたとき、「ニューカマー外国人」としてひとくくりにできないほどに、国籍間の差は顕著である。とりわけ、現在にいたるまで苦難を強いられているのが在日ブラジル人である。約20万の人口のうち、その多くは日系人であり、かれらはペルー人、フィリピン人とともに学齢期の子どもの比率が高かったことから、初期の段階から子どもの不就学との関連で言及されることが多かった(太田 2000; 志水・清水 2001)。近年、在日ブラジル人の若者の教育達成はゆるやかに改善されてはいるものの、依然として日本人との間には大きな差が存在しており、大学進学率は20%程度にとどまっている。

 大阪大学大学院に在籍する大川へナンさん(博士後期課程3年)は、みずからがこのような在日ブラジル人をとりまく教育問題を生きた「当事者」でありながら、自分と似た境遇の若者の教育問題について研究をおこなう「研究者」でもある。つまり彼が研究対象としているのは、自らの目で見、自らの身体をもって体験してきたことそのものなのである。

 そんな大川へナンさんは「当事者」として、あるいは「研究者」として、これまでの体験をどのように振り返るのだろうか。そして彼は自身の体験との関わりから、今の研究活動をどのように意味づけているのだろうか。私たちは話を伺った。


渡日と定住

――大川ヘナンさんがお生まれになったのはブラジルですか?

ブラジルのパラナ州です。ロンドリーナという、日系人がけっこう多い町です。

――日系人が多いというのはどのぐらいなんですか?

例えば日伯100周年(注1)の時に皇太子殿下が祝典でロンドリーナに来るくらいで、たぶんパラナ州の中でも日系人が多い町ですね。日本文化会館みたいなのがあったりだとか、県人会とかもあるようなところで。ただ僕自身はあまりそこらへん〔=ロンドリーナの日系人コミュニティ〕に関わったことはなくて。

というのも、僕の家族で日本人は母方のおじいちゃんだけなんですよ。〔おじいちゃんが〕ブラジル人のおばあちゃんと結婚する時に、〔おじいちゃんの家族は〕日本人と結婚して欲しかったんですよね。それでおばあちゃんと結婚してから家族と疎遠になって。おばあちゃんの方はみんなブラジル人なので、僕は日系人とあんまりかかわらずにブラジルでは暮らしていましたね。

(注1)2008年に開催された、日本人ブラジル移住100周年記念式典。

――周りの日本人の親戚とかと関わりがない環境で育ってこられたんですね。では、ヘナンさんは3世ということになりますね。

そうですね。僕は3世です。

――何歳までブラジルにいらっしゃったんですか。

7歳ですかね。8歳に変わる時ぐらいに日本に来ました。

――ご両親はすでに先に日本に行っていましたか?

そうですね。僕の両親、僕が生まれたとき若かったんですよね。たぶん20歳とかで、子どもを育てる親としての自覚があまりなくて。僕、生まれてから2週間ぐらいで〔母方の〕おじいちゃんとおばあちゃんに預けられているんですよ。面倒見れないってことで。

その後たぶん3、4歳…、僕が幼稚園入る前くらいに、ブラジルで生まれたけど日本国籍を持ってたおじいちゃんが両親と伯母さん〔母の姉〕を連れて日本に行きました。僕とおばあちゃんがブラジルに残るっていう感じでしたね。

で、小1の頃に両親が離婚して、それよりもうちょっと前にはおじいちゃんが亡くなってたんですよ、出稼ぎの時に日本で。僕は小1の時だけブラジルの小学校行って、小2の頃におばあちゃんが〔2人で〕日本に行ってみようってなって。

――その後、7歳か8歳ぐらいに日本に来られたわけですね。となると1997年。ちょうど日系ブラジル人が日本で増えてきている時期になりますね。最初の頃は日本のどこにいらっしゃったんですか?

〔日本に〕来て最初の1週間とか2週間は神奈川に伯母さんがいたのでそこにいたんですけど、母親が名古屋に日本人のパートナーと一緒にいて、一度僕とおばあちゃんで母親がいる名古屋のところに行ったんですよ。日本人の方はすごくいい人でウェルカムだったんですけど、母親はやっぱり子どもが得意じゃない人で。

僕がその頃小2で成長痛かなんかで膝が痛くなって、夜けっこう泣いてたりしてたんですよね。母親がそれに我慢できなくて、「眠れないから静かにしろ、うるさい」みたいな感じの人で、〔それを見た〕おばあちゃんが「これはあかんな」と思って。〔名古屋では〕小学校にも一応入ってたんですけどほぼその記憶がなくて。3か月でまた伯母さんのいる神奈川の家に引越ししました。

――なるほど。神奈川の家というのはどの辺りだったんですか?

愛川〔町〕です。

――愛川町にはその後長くいたんですか?

中2の2学期までですね。

――6年くらいいたんですね。愛川町って関東では日系ブラジル人がとても多いってことで有名ですよね。その後はどこに行ったんですか?

そのあと名古屋の母親のところにまた戻ったんですよね。おばあちゃんがやっぱり大変だと思ったんですよ、工場で働いているのを見て。もちろん日本語も喋れないですし。それで、ちょうど母親が日本人のパートナーと再婚していて、弟が生まれたんですよね。生活が安定してたんで、そのときたぶん冗談でおばあちゃんが「あんたがお母さんのところに行ったら〔自分は〕ブラジル帰るけどね」っていうのをポロッと言って、当時の僕がそれをけっこう真剣に受け止めたんですよ。ばあちゃん工場で働いてるのしんどそうだし、ブラジル帰ったほうが幸せじゃないかなと思って。母親とは暮らしたくなかったんですけど、「じゃあ名古屋行くわ」って〔おばあちゃんに〕伝えて。弟も〔1人じゃなくて〕兄弟がいたほうがいいのかなっていうのもありましたし。それで中2の3学期から名古屋の母親のところに引っ越しました。

――小さいころから家族の状況をよく見ておられたんですね。弟さんってのは1人ですか?年齢はどのくらい離れていますか?

母方は1人ですね。12か、13ぐらい離れてます。

――おばあさんはヘナンさんが名古屋に移った後、ブラジルに戻られたんですか?

すぐではないんですけどその後戻りました。

――中2の3学期から新しい生活が名古屋で始まったということですが、新しい環境で、疎遠とは言わないけれどもこれまでひとつ屋根の下で暮らしてこなかったお母さんと異父兄弟と生活するってそんなに簡単なことじゃないのかなと思います。学校生活も含めて、その間振り返ってどうでしたか?

いや、もうやばかったですよ(笑)。そもそも母親が〔生活に〕安定してるんで名古屋に移ったんですけど、移ってすぐにまた離婚したんですよ。まあどう見ても母親が悪いんですよ。その日本人のパートナーが今まで〔母親と〕2人だったんで、「外に遊びに行くな」「子どもの面倒を見ろ」みたいだったのが、僕が来てから〔母親が〕「いや、もうヘナンが〔弟の面倒を〕見るからあんたなんか知らない、どっか行け」くらいの勢いで。

ほかにも色々あって、例えば離婚するときにも離婚届を僕の部屋に持ってきて「書いておいて」みたいな。いやいやってなりますよね(笑)。全く日本語ができない人ではないので、「これくらいは自分で書いて」みたいな話をすると、キレて「神奈川帰れ」って言われるような感じで。それでその後生活保護になったんですよね。まあ母子家庭で生活保護という形になったんですけど。とにかく家での母親とのやりとりはしんどかったですね。

正直高校も行けないと思ってたんですよね、神奈川にいた時から。すごい成績悪かったんですよ。やんちゃとかしてないんですよ?真面目に学校行って真面目に授業を受けて、それでもぜんぜん点数取れない、みたいな。中学校に入ると毎回数学のテストがだいたい15点とか20点とかなんですよ。それで先生がなんで間違えたのか全部振り返りなさいって言うんで〔間違えた〕80点分振り返るんですけど、次のテストまた20点とかなんですよね。もう普通に馬鹿なんだなって思ってて。愛川には僕が行けるかどうかギリギリくらいの高校があったんですけど、当時の周りの友人が言うのは「そこに行くのはヤンキーか外人だけだよね」みたいな。

名古屋に引っ越してから、〔転校した中学校は〕すごい荒れてる中学校だったんですよ。窓ガラスがいつも割れてるぐらいのヤンキーがたくさんいるところで。だから静かにしてると内申点上がるしテストもめっちゃ簡単みたいな感じで(笑)。成績が今まではいくら頑張っても5段階評価でオール3なかったのがオール3以上になって、自分も高校いけるんかなと思い始めて。

それで、ちょっとでもいい高校に行きたかったんですよね。親に聞いても「そんなの知らんし自分で決めて」っていうような感じで。だから先生と話して、中堅のところを狙おうかってなって。当日の試験でどうにかなるんじゃないかみたいな話をしてたんですけど、直前の三者面談の時に母親がなんか突然「100%行けるところじゃなきゃ受けさせない」って言い出して。いやもう知らんって言ってたやんっていう(笑)。先生も「100%ですか…」みたいな。

それで、家の近くのヤンキーがたくさんいるめっちゃ荒れてる学校があって、ここならまあいけると。ほんとに一番下の高校だったんですよね。もういいやと思って「もうそこでいいっすわ」みたいな話をして。後日先生がここはいくらなんでも下すぎるから代わりにここにしようって言われたところをもうなにも見ずに決めて。結局そこも定員割れでしたね。授業中もみんな寝てるし、授業起きてるだけでもうクラス10位以内に入れるような高校でした。高校時代は僕が賢くなったっていうよりかはみんな全然勉強しないんで。

大学受験、ブラジル帰国

――中2の3学期から名古屋に移り住んで、その後名古屋の高校に進学をして…。そうすると次は大学に行くかってことを考えるわけですよね。

高校出てすぐには大学行けなかったんですよ。友達はみんな大学行ったんですけど、僕だけ最後まで進路が決まらなくて。それで、その時僕が行きたかった大学があって、そこが当時けっこう先進的にパソコン使いながら授業をしていて魅力があったんですけど、ちょっと学費が高かったんですよね。もちろん母親に大学行きたいって言ったら「うちはお金がない」って言われて、まあそうだなみたいな。

その大学が学費全額免除、もしくは半額免除の試験があったんですよね。学力試験じゃなくて小論文と面接だったんですけど。そこが自分が行きたかったとこだったんで、そこを受けようと思って国語の先生にお願いして、小論文とか一緒に書いて出して。国語の先生も小論文は通るんじゃないかって。ポルトガル語も日本語も話せるみたいなそういう自分の特性も生かしながら書いたんですけど、通らなかったんですよね。チャンスが3回あって、〔1回目が〕通らなくて。国語の先生となんでだろうね、けっこう頑張ったけどね、みたいな話をして。

そのあと〔2回目のチャンスで〕もう1回〔小論文を〕書いて、そしたらまた通らなかったんですよね。オープンキャンパスもその大学たぶん8回ぐらい行ってたんですけど(笑)。それで入試課みたいなところで聞いたんですよ。「今試験受けていてうまくいかなかったんですけど、どういう学生を募集してるんですか?どういう生徒が受かるんですか?」って聞いたら、「これは生徒会をやってる人とか部活動の部長をやっている人とか、そういう活動をされてる人が通りますね」っていうふうに言われて。あ、じゃあ自分と関係ないなって思って、3回目残ってたんですけど、もう諦めました。生徒会もやってないし部活も途中で辞めちゃってるし、もう無理だなってなって。

そのときブラジルに帰ってたおばあちゃんに「ブラジルの大学は〔学費が〕タダだからブラジルで大学行かない?」って言われたんですよね。それで、けっこうそのときは〔ブラジルに行くことに〕希望を持ってたんですよ。日本では僕はうまくいかなかったっていう認識だったんで。ブラジルに帰れば大学行けるし、差別とか外人とかそういう扱いを受ける日本ではない、自分の国に戻れるんだっていうふうに思って。

高校卒業してかなりの希望を持ってブラジルに帰ったんですけど、蓋を開けたら何もうまくいかなかったっていう。8歳から18歳まで日本の学校で勉強してたら、まあ向こうの大学は受からないんですよね。うちの家族は誰も大学行ってないので〔ブラジルの大学の〕事情とかがあまり詳しくなくて、確かに公立はタダなんですけど競争率がすごい激しいんですよ。特に公立とかであれば、いい学校に行ってるお金持ちで、塾通ってるような子とかが行けるんですよね。でも、そもそもブラジルで勉強したことない自分が受かるわけないし、ポルトガル語は喋れるし多少読めるけど、なんか書かせたらスペルが合ってないだとか、アクセント付けるところが合ってないだとか。〔ブラジルに〕着いてすぐに無理やんってわかった感じですね。

――ブラジルには18歳で戻って、どのぐらいいらっしゃったんですか?

1年ですね。日系人が多いところだったんで、日伯文化センターみたいなところがあって、そこで大学の先生にポルトガル語とブラジルの歴史を教わってました。それで、ブラジルの国費留学生制度みたいなのがあったんで、それにも応募したんですよ。生活費と学費を出して日本の大学に進学するみたいなやつなんですけど、それも書類〔審査〕で落ちたんですよね。それは書類と試験と面接だったと思うんですけど、試験も日本語があるからこれいけるなって感じだったんで、書類も全部日本語でガーッと書いて出したら落ちて。それで先生としゃべってたら、「やっぱりまだ日本に行ったことない子を優先したいんじゃないか」って。うわ、ここも〔自分に〕当てはまんないんかいみたいな。

友達もいなくて、学校ない日とかは昼夜逆転して夜はずっとYouTubeとか日本のアニメとか映画見て、昼間は1日中寝て。そしたらおばあちゃんがうつ病ちゃうかって心配し始めて。僕はそうではないと思ってたんですけどうつ病っぽかったんですよね。ブラジルでも働いていたわけじゃなくて、おばあちゃんの年金で暮らしていただけなんで。それでもうどうしようってなって。自分はもう本当にサンパウロに行くよりも日本帰るほうが心理的に近い。ブラジルにいても日本のバイト求人見たり、みたいな(笑)。それでうまくいかないなってなって。お金なかったんで出稼ぎの人が買う飛行機のチケット、後払いのやつを買って、伯母さんのいた神奈川に戻ったって感じですね。

大学進学から就職まで

――19歳までブラジルにいて日本に戻ってきて、いきなり進学というわけにはいかないから働くことになりますよね。アルバイトみたいなのはやってましたか?

そうですね。昼間を家電量販店で、夜は深夜にコンビニでバイトやってました。

――その生活を何年間か続けられたんですか?

1年ですね。

――じゃあその1年間でお金を貯めて、進学したんですね。

〔自分で貯めて出したのは〕最初の入学金ぐらいですね。あとは日本学生支援機構の奨学金を借りました。

――20歳で日本の大学に進学したということになりますね。その大学はどこですか?

天理大学です。少しでも学費が安いところで。天理大学は、私立ではまだ安いんですよね。それと、高校の時一番仲良かった子がフランス語やってたんですよ。それに引きずられてか自分もフランス語をやりたいっていう思いがあって。あとは家族から離れたかったっていうのと、関西に行きたかったっていうので。外国語ができて学費も安くて、プラス簡単に入れる。予備校に入るお金も時間もないんで、少しでも入りやすくってことで。

――その間学費は自分でアルバイトをしながら払ってたんですか?

そうですね。ゴルフ場でキャリーのアルバイトをしながら過ごして。

それと3回〔年生〕の途中から4回〔年生〕の途中まで留学してるんですよね、アメリカに。

――そうですよね。確かオハイオ大学に行ってますよね。

そうなんです。それも本来は留学できるようなお金がなかったんですけど。変な話なんですけど1回生の終わりに交通事故で車に轢かれたんですよね。横断歩道渡ってたら車がバーっと来て。そんな大怪我とかじゃなかったんですよ、頭切ったぐらいで。それで慰謝料が入って、その慰謝料でアメリカ留学できるわと思って(笑)。まあ交換留学だったんでそんなに〔お金は〕かからなかったんですけど。

――4回生とかだと周りが就職活動をまさにしているときですよね。ヘナンさんは留学に行って帰ってきてから就職活動をしたんですか?

一応しました。むこう〔=アメリカ〕でも日本人学生コミュニティみたいなのがあって、そこで就職のアドバイザーみたいなのを呼んでくれたりだとか。〔日本に〕帰って3社ぐらい受けて、それで2社受かって。実はその時、大学院にも行きたいと思ってて、大阪大学の今と同じ研究室受験して一応受かってはいたんですよね。でも、1つはおばあちゃんがブラジルにいますし、お金を送りたいなという思いとか、1回大学院に行っちゃうとこのまま働かずに終わっちゃうなみたいな。それで採用されたうちの1つの浜松の商社、海外貿易の会社に入りました。

――就職される時にも今と同じ大学院の研究室を受験されてたんですね。大学の時から教育社会学という分野に関心があったんですか?

そうですね。大学にいたとき、けっこう他の学科の授業とかも取ってたんですよ。宗教学とか体育学部の衛生学とか。それで、人間関係学だったか学科名忘れたんですけど、そこに教育社会学の授業があって、それを取ってみたんですよね。そしたらそれがけっこう面白くて。

それでその授業の学期末の課題が、テーマは何でもいいから教育問題に関することでレポート書いて提出するっていうので、自分が外国人なんで外国人に関連することでなにかあったら面白いなって思って図書館に行った時に、宮島喬先生と太田晴雄先生の『外国人の子どもと日本の教育』っていう不就学を取り扱った本があって、これなんだろうと思ってそれを読んでみたんですよね。

そしたらそれがすごい衝撃で。いままで自分が勉強できないとか、うまくいかないっていうのを全部自分のせいだと思ってたんですよね。自分が根暗だからいじめられるんだとか、バカだから勉強ができないんだって思ってたのが、自分だけじゃないんだっていうのをそこではじめて知ったんですよね。実際にその本にも愛川〔町〕が載ってたりして、自分だけじゃないんだっていう衝撃が強くて。そこから教育社会学に興味を持って。

――就職先の浜松の商社では何年働いたんですか?

3年。3年でその後転職して、東京で1年働きました。

――商社だったらそれなりにサラリーも高いんじゃないですか?

地方なんで基本給は安いんですけど、海外の出張手当はたくさんつきます。小さい会社で、入社して半年ぐらいでアメリカに上司と一緒に1ヶ月行くとかしてたんで、海外出張行けばお金がもらえますね。ただ結構昭和の体育会系の会社でした。ジャパーンアズアンバーワンって感じで、ジェンダー感覚も賛成することができない部分が多かったです。3年働いた後に、文化的にも他の条件的にも転職したいと思い、転職活動を始めました。

二つ目の会社は東京のコンサル会社でした。最初は海外の駐在員として働く予定でしたが、結局入社後にその話はいつの間にか消えていました。結局当初考えていた、海外の部署とは関係ない部署で働くことになり、体力的にも精神的にかなり厳しい状況でした。入社3ヶ月ぐらいで一度辞めようとしたんですが、海外事業部のマネージャーが日本に戻ってきて、「辞めるんだったら折角だから一緒に海外のことをやってから決めたら」と声をかけられて、それで踏みとどまってもう一度海外事業部で海外関連の仕事をやることになりました。そこでも残業がすごく、かなりしんどかったですが、それでも前の仕事で培った貿易の知識とかを使うことができて、ある程度売り上げを上げれるようになったんですが、また海外に関係ない仕事をやることになって、残業が格段に増えて、それでもうこれ以上は続けることができないなっと思いました。

〔同時期〕色んなところで転職活動もしていて、選考も進んでいたんですけど、このまま転職してある程度お金を稼ぐのと、大学院に行って自分のやりたかった、同じような外国人の子どもたちに対して何か取り組みをするのってどっちがやりたいんだろうなって思って。どっちを選ばなかったら後悔するのかなって思ったときに、たぶん大学院行かないほうが後悔するのかなと思って。それで転職活動もやめて会社も退社した後、また奈良に戻ってゴルフ場のキャリーのバイトをしながら受験勉強をして、大阪大学の同じところを受けました。

――働いている時に外国人差別を経験したことがありますか?

まあ、ないっちゃないんですけど。ただ採用された商社では、最後の社長との面談の時に「いやぁ、働きたいと思ったブラジル人は君ぐらいだよ」みたいな話をされて、うん?って思うことはありましたね。「ほかのブラジル人とは合わない」みたいなことを話したりだとか。外国人差別はどちらかというとバイトやってた時でした。外国人というだけでちょっと無理ですって言われたことは何回かあります。

――住居に関してはどうでしたか?

それはやばかったですね(笑)。浜松の商社で働くってなった時に、バイト先の帰国子女の先輩も同じ会社に就職することになって。その後一緒に同じ不動産でアパート見に行ったんですよ。2人とも〔浜松に〕詳しくなくて、会社の人に南区がいいよって言われたんで南区の会社に近いところでどうですか?みたいに聞いて。2人とも事前にネットである程度ピックアップして調べていたんですけど、先輩が日本人で〔不動産会社のスタッフが〕「ここはいいですよ」とか「ここどうですか?」みたいな感じだったんですけど、僕の時は大体がもう外国人NGなんですよね。南区だったらこの3つのどれか、みたいな。

――外国人だからって理由で選択肢が極端に少ないんですね。

研究について

――大学院での研究の話を聞かせてください。へナンさんが修士課程に入って、その後すぐに博士課程に進んだのは引き続き研究をやりたいと思ったからですか?

そうですね。最初は修士だけ行くつもりだったんですけど、やっぱり博士行きたくなったって感じですね。

――それはなぜですか?

研究が楽しかったからだと思います。やっぱりビジネスは全然楽しくなかったんですよ。いくら売り上げ立って大きい契約取ったりしても全く楽しくなくて。〔大学院では〕周りは辛いって言うんですけど、個人的に辛いと思うこともありません。

あともう1つの理由に、そもそもブラジル人で出稼ぎ出身の研究者いないなっていうのもありました。ブラジル人の研究してる日本人に僕らのこと分かるのかな、みたいな。それでどうにかできないかなって思ったところもありますね。

――博士課程ではどんな研究をしていますか?

在日ブラジル人、もしくは在日外国人の子どもの「移行」に関して研究しています。移行っていうのは大学から就職とか高校から就職とか、そういう移行です。修士では〔在日ブラジル人の〕大学進学をやってたんですけど、もうちょっと広げていまは移行をやりたいなと思ってますね。

――子どもや若者にターゲットを置いているのは、やはりご自身の経験が大きいんですか?

そうですね。家族とかももちろんやってはいるんですけど、やっぱり若者ってところが一番ですね。

――博論ってどんなテーマで書くんですか?

今ちょうどどうしようか迷ってて(笑)。まあ移行のところではあるんですけど。一方で博論では「オートエスノグラフィー」っていう自分自身を研究対象とする方法をとりたいと思っていて。今考えてるのは最初に主観的な立場から自分の移行を振り返って、次に修士の時にインタビューした若者たちに追跡インタビューをしながら、〔自分以外の〕もっと多様な要素を持った若者を調査することで在日ブラジル人をみた時にどういう移行を経験をしているのかをみて、そして最後に社会としてかれらをどういうふうに移行させているのかっていうのを議論できたらなぁって。

――なるほど。最初に自分の経験とか主観的なところから出発して、その後複数の視点から、さらには社会のマクロな視点から移行を捉えていくっていうことですね。オートエスノグラフィーについてもう少し詳しく聞きたいのですが、ヘナンさんはどのような問題意識、あるいはきっかけからオートエスノグラフィーに注目するようになったんでしょうか?

最初はそんなの全く知らなくて、博論に使うつもりも全くなかったんですよね。でも途中から当事者研究みたいなところに意識が行って、日本人の偉い先生たちが本当に僕らのこと分かるのかな、みたいな(笑)。もちろんこれまでの研究を否定したいってわけじゃなくて、違った視点もあるんじゃないかって思い始めて。

その時にたまたまオートエスノグラフィーを知って、実際に〔日本〕移民学会で研究ノートっていう形ですけど1本書いて。最初は博論で使う予定はなかったんですけど、一方で自分のことは語らずに他人のことだけを語るのかっていうところの引っかかりとか。

あと、なんかやっぱり僕はまだ自分自身の経験を理解しきれていないんですよね。自分がなぜ高校卒業してすぐに大学に行けなかったのか、なぜその後大学に行けたのか、なぜ今旧帝大に入れているのかっていう自分自身の移行とか進学自体を、僕自身がたぶんまだわかってないんですよ。やっぱり先行研究を読む中において自分が見当たらないんですよね。外国人、外国ルーツ、移民、在日ブラジル人っていろんな語りはするけれども、合わないんですよね。先行研究に自分が見つからなくて、自分はなんなんだろうかみたいな。

オートエスノグラフィーは研究のためにやっている側面はありつつも、自分がどういう存在なのかっていうのを探すためにもあって、だから博論の裏のテーマとして自分の人生の答え合わせ、みたいな側面もありますよね。

――明らかにヘナンさんご自身の体験や問題意識と方法が結びついている感じがありますね。オートエスノグラフィー、興味深いです。現在、ヘナンさんの論文はいくつか学会誌にも載っているわけですが、ご自身の研究は現場に届いていると思いますか?

いやぁ、論文は研究者しか読んでないと思いますね。現場に届いてますかって言われると、届いてないと思いますね。

――研究することと、現場に届けるってことは必ずしもイコールにならないことが多いですよね。それでもヘナンさんが日系ブラジル人、在日ブラジル人のことを研究しているっていうのは、なにか自分の研究で問題の所在を明らかにすることによって、後輩たちといえば適切かわかりませんが、将来に還元したいというモチベーションがあったりするからでしょうか?

いやもう、どちらかというとそっちの方が強くて。最悪博士号なくてもブラジル人の何かがよくなるんだったらいいくらいの思いです。今は届けることができてないんですけどそこをどうにかしなきゃいけないなという思いが強くて。それで、前に書いた論文とかもそうなんですけど、例えばもっと当事者と一緒に研究を進めていく。例えばインタビューとかも、ただ内容が合ってるか確認するだけじゃなくて解釈を一緒にしていくとか、そういったものができないか考えたりしていますし。僕はまだ論文書いて投稿して、くらいしかできていないんですけど、当事者をどういうふうにもっと絡めていけるのかっていうのは自分で考えなきゃなと思ってますね。

――研究者による一方的な解釈ではなく、当事者と一緒に解釈していく。研究のプロセスそのものを重視されているんですね。

そうですね、まだ自分でうまくどういうふうにやればよいのか考えてるところです。

実は僕、18歳でブラジルにいた時に山本晃輔さん(注2)にインタビューされたことがあって。その後に『「往還する人々」の教育戦略』っていう書籍が出るんですけど、そこのひとりの事例が僕なんですよ。山本さんから日本帰るちょっと前くらいの時にインタビューを受けて、まぁ色々うまくいかないっすねみたいな話をして。

その後大学入って、留学から帰ってきた頃くらいに山本さんからその本をもらったんですよね。それで、その本の僕が書かれているところを読んだ時に、まあ仮名で載ってるんですけど、この子めっちゃ可哀そうやんって思ったんですよ(笑)。この子悲惨やわぁって。でも、僕は自分の人生を悲惨だとは思ったことがなかったんですよね。ほかと比べて人生イージーモードではないなっていう認識はあったんですけど、自分の人生を悲惨だと思ったことはないんですよ。別にそんな悲惨っていうキーワードは使われてないし、もちろん山本さんが悪意を持って書いたわけでもない。書いていることはすべて事実だけれども、ちょっと違和感みたいなのがあって。

大学院に入ってからそれを実際に山本さんに伝えたんですよね。「僕こんなかわいそうですか?」みたいな。それで大学院に入ったときにエッセイを書いて、そのエッセイに対してまた山本さんが〔返答として〕エッセイを書いてるんですね。その中ですごくへぇ〜と思ったのが、山本さんは「かれのなかでブラジル〔の経験〕は生きていたのか」って書いていたんですけど、「あ、生きてなかったって思ったんだ」って思って。

そのブラジルの1年間っていうのはまあ僕も失敗だと思ったけれども、ブラジル帰っていろいろ分かったしみたいな感じで前向きに捉えていたんですよね。でも山本さんは当時そういうふうに捉え切れていなかったっていうのがあって、それを伝える中ではじめて山本さんの解釈も変わったということがあったんですよ。まあもちろん全員がこれと同じようなことをできるとは限らないんですけど、そういったものができたらなって。

(注2)関西国際大学社会学部社会学科准教授。専門は教育社会学、ブラジル日本移民研究、マイノリティ教育、共生社会論。主著に「日本とブラジルを往還する家族の教育とコンフリクト」(栗本英世ほか編『争う』大阪大学出版会、2022年)、「帰国した日系ブラジル人の子どもたちの進路選択――移動の物語に注目して」(『教育社会学研究』94、2014年)などがある。

――確かに、このエピソード自体が研究者と当事者の共同作業で解釈を築き上げていく研究プロセスになってますね。当事者と一緒に解釈を進めていくことの重視性がよくわかりました。

〈定住者〉としての外国人

――一部リーマンショックの影響等で帰国した人もいますが、現在もそれなりの規模の日系ブラジル人が日本に居住しています。ご自身の経験、あるいは研究者として俯瞰してみて、これまでの日本政府の日系ブラジル人に対する処遇は適切だったと思いますか?

もちろん適切じゃなかったと思います。

――どういったあたりが問題だと思いますか?

まあ、興味ないんだと思いますよ(笑)。日系だとかブラジル人に限る話じゃないんですけど、研究分野においても若者の移行だとか就労支援って基本日本人なんですよね。これまでの研究も例えばヤングケアラーの話だとかそういったものって、不利な状況にある日本人がすべて議論の中心なんですよね、若者研究とかになってくると。だけど読んでると、これ絶対外国人も当てはまるじゃんっていう内容なんですよ。

低学歴だとか、偏差値下位校だとか、定時制高校だとか、早期離脱だとか、全部当てはまるのに日本のメジャーな若者研究に出てこないんですよ。でもこの子たち、これからも日本で暮らして行くよねっていう話なんですよ。

今後日本社会の構成員になっていくのに、日本社会の構成員としてまったく見られていないっていうのが今の問題だと思っていて。日本では外国人は外国人の問題、日本の若者は若者の問題っていうふうに切り離しているのが一番問題だなっていうふうに思ってますね。同じ問題で今の外国人政策も定住を前提とした考え方がないんですよね。基本的に家族を連れて定住させていく意思がない。

――愛川とか名古屋で生活された経験がおありですが、地方自治体がやってることで評価できること、あるいは見当違いなんじゃないかと思うことって何かありますか?愛川〔町〕だと例えば役所でポルトガル語ができる人を雇っているって話も聞いたことがありますが。

今振り返ると全然わかんなかったんですよね。強いて言うなら自分がやってたことですが、大阪の高校で母語教員をやってた経験があって、そういうのはもっと小中学校でも一般的に広がったらいいなとは思いますね。

――現在日系ブラジル人で大学に進学する人っていうのはだいたいどのぐらいなんでしょうか?

この前樋口〔直人〕さん(注3)が出した本の中では確か20%とかそのくらいでしたよね。

(注3)早稲田大学人間科学学術院教授。専門は移民研究、社会運動論、政治社会学。著書に『日本型排外主義――在特会・外国人参政権・東アジア地政学』(名古屋大学出版会、2014年)などがある。

――当然日本国籍の人と比べると比にならないですが進学率は徐々に増えつつあるという状況ですね。もちろん大学に行くことだけが人生の全てではないですが、現状まだ20%であることを考えると、原因はどこにあると思いますか?

そもそも選択肢がないように僕は感じていて、1つはやっぱりお金なんですよね。修論の時も〔インタビューで〕いろんな人と喋ったんですけど、そもそも日本学生支援機構の奨学金の存在を知らなかったとか。たしかに学校は〔奨学金について〕説明はしてるんですよ。でも奨学金の要項とか、難しすぎて読めないんですよね。僕が奨学金の要項を見てもところどころえっ?てなるくらい。ここってこれで合ってるかな?みたいな。

僕が話を聞いた子たちで、やっぱり高校まで行くと、日本語ができる子に対して先生もこの子は日本語できるし大丈夫ってことで、日本人と同じように対応するらしいんですよ。ただ、学費とかいろんな手続きの書類を家に持って帰っても親は〔書類だけをみても〕全然わからないっていうのだとか。学費で言うと、ブラジルだと学費は月謝払いだったりするんで、例えばいきなり初年度に100万必要って言われた時にそれを知らずに払えなかったっていうような話もありますし。そういった違いはすごくあると思いますね。

――学費に関して言えばそもそも納入方法が日本とブラジルで違うとか、あとは情報が出ていてもこれはこうだよっていうような介入がないと、ちゃんと伝わっているかはわかりませんよね。

そうですよね。大学行けた子たちで、高校の先生が、大学に行くんだったらこれこれが必要とか、これがなきゃだめとか、そういうのをかなり早い段階で教えている先生もいたんですけど、でもそれって体系化されているわけではないですよね。

――たまたまその先生が意識的だったからラッキーってことですよね?

そうです。だから本当に運がいいかどうかでかなり左右されて。僕も修士1年の時に文科省でやったシンポジウムで話させてもらった時に、僕じゃないもう1人のブラジル人の人がいたんですけど、その人のスピーチがものすごく印象的で、「小学校の時にヒーローのような先生に会いました」みたいなことを言うんですよね。それ聞いて、いや僕ヒーローに会ってねーなって思ったんですよ。

結局そこなんですよ。運が左右されていい人に会った、いい先生に出会った、いい学校に入れた。それで振り分けられちゃうところがあって。じゃあヒーローに出会えなかった人たちはどうなるのか。僕はヒーローに出会えなかったけど今ここにいる。でも正直楽じゃなかったんですよね。諦める選択肢の方がずっと多い中でここまで来たので。まあ自分が頑張ったっていう話をしたいわけじゃないんですけど、でも簡単じゃなかったよっていうことですよね。

――たまたま宝くじみたいにヒーローに出会ったからよかった、みたいな。美談になりがちだけど、そもそも「外国人のかれらは日本に定住している人だ」っていう認識があったらいろんなことがもっと先取りしてできていたはずですよね。

いつも思うのが、僕をロールモデルに扱うっていうことにすごく違和感があるんですね。いやいや、絶対ちゃうやんみたいな。ブラジル人学校で子どもたちの前で話す機会があったんですけど、やっぱり難しいんですよ。学校の先生としてはヘナン君がお金もなかったのに日本の大学に行って今は大学院にいます、みたいな感じで紹介されるんですけど。

ブラジル帰ってもうまくいかなかったし、日本でもうまくいかなかったし、結果今たしかにこの状態だけれども絶対ロールモデルじゃないでしょ、みたいな。ロールモデルって言うんだったら、高校行って、頑張って大学行って、いい仕事に就けたっていうようなものだったらいいけど、こんな波乱万丈なものを結果だけ見てロールモデルって言われても、「じゃあついてきてください」って言われたら無理でしょってすごく思うんですよね。「みんな頑張ればできるよ」っていうのは手放しで言えないんですよ。だって簡単なことじゃないですもん。大学も簡単に入れないし、だから本当にそこは困るんです。もちろん可能性はありますよ?もちろんあるけれども、それ相応の努力をしないと日本は僕たちに優しくないよっていうことを言うしかないんですよね。

――ひとたびロールモデルを設定してしまうと、だれかにとっての足かせになってしまうかもしれない。

苦労して成功したっていうようなロマンチズムを人びとは好むけれども、そもそもロールモデルとは何なのか。ロールモデルの条件ってなんなのかっていうのを考える必要がありますよね。ブラジルとかもそうなんですけど、大学にすぐに行かずに働いてから行くとか、働きながら大学に行くとか道筋がけっこうあるんですけど、日本がそこは一本道でかなり硬直的っていうのがあるので。そこら辺がやっぱり違うよねっていう話で。

インタビューを終えて

大川へナンさんの個人史については、彼自身「まだ自分自身の経験を理解しきれていない」と言っており、これまで見てきたエピソードを「外国人」「移民」「在日ブラジル人」などのカテゴリーを用いて分類・記述し、評価することに関して、ここでは控えておきたいと思う。しかし、決して「イージーモード」ではない大川へナンさんのこれまでの歩みを前にして、彼をたびたび困難な状況に置いた要因はなんだったのか、改めて考える必要があるのではないかと思う。見ればわかる通り、彼の経験は単に個人的なものではなく、社会的なものであるからだ。

インタビューの後半では、研究者としての大川へナンさんの取り組みについて話を伺った。印象的だったのは、研究者を志す動機として「自分たちの問題は自分たちで語りたい」という強い思いがあったことだ。

アカデミアにとどまらず、日本のあらゆるマイノリティをとりまく状況は、依然として当事者を沈黙させている。研究に代表される言説のレベルであれ、政策のような実践レベルであれ、例に漏れず見られるのは、①当事者が不在のなか、マジョリティのみによって問題が議論される。あるいは、②マジョリティに協力的な「モデル・マイノリティ」を採用して協調することで、「私たちはマイノリティにも配慮していますよ」というようなアリバイづくりがなされた上で議論される、おおよそこの2つであろう。とりわけ後者については、日本における多文化共生の隆盛を前に、社会学者の鄭暎惠が1996年の時点で次の重要な指摘をしているが、状況は今も一向に変わっていないように思われる。

「マジョリティ」の「無知」を解消するために、また、許可証的「マイノリティ」が発言の場を与えられるために、公認された「モデル・マイノリティ」たちが〈陳列(エキシビジョン)〉されることを指して、マルチカルチュラリズムと呼ばれることもある。さらに、そうした陳列・並列は必然的に、「マイノリティ」を事前に分類することになる。マルチカルチュラリズムという1つの枠におさまるためには、「マイノリティ」はここでも他者化されなければならない。アイデンティティをもたなければ、レッテルを貼ってもらわなければ、マルチカルチュラリズムの土俵に上がれないからだ。(……)マルチカルチュラリズムとは、「マジョリティ」以外の人々にアイデンティティをもつことを強要すると同時に、「公認する」という方法で反差別の闘いを去勢させる装置なのである。そして、「公認する」ことにより、いったい誰が支配者であるのかを、改めて人々に再確認させる。(鄭暎惠 1996: 24-25)

鄭暎惠はここでマルチカルチュラリズムを博物館における文化の陳列に例えつつ、マルチカルチュラリズムに潜む「見る」「評価する」「公認する」者(=マジョリティ)と、「見られる」「評価される」「公認される」者(=マイノリティ)という非対称な権力関係を痛烈に批判している。そして、こうした状況において、へナンさんと同様に「自分たちの問題は自分たちで語りたい」と切望する無数の当事者は沈黙させられてきた。現在、へナンさんが対峙しているのは、このようなきわめて閉塞的な知的状況であり、より踏み込んでいえば社会状況なのである。
こうしたヘナンさんの問題意識は、彼の研究手法にはっきりと反映されている。1つは、「調査者が自分自身を研究の対象とし、自分の主観的な経験を表現しながら、それを自己再帰的に考察する手法」(井本 2013: 104)である「オートエスノグラフィー」と、もう1つは研究者と当事者のコミュニケーションに基づく解釈の共同作業である。それらはいまだ模索中とのことであるが、「記述する」「解釈する」研究者と、「記述される」「解釈される」当事者のあいだの非対称な関係を克服するような、新たな研究のあり方に可能性を感じずにはいられない。

「研究は本当に当事者の声を反映させているのか?」という当事者的な反発を抱えている自分がいる一方で、「記述や研究には限界がある」と研究者的な納得を理解しようとする自分も存在する(……)もちろんその落とし所を簡単に決めることはできない。当たり障りのない答えを求めるならば、それは「研究者は最大限の努力をしている」という言葉で片付けることはできるが、当事者としての私はその言葉に対して納得することができずにいる。なぜなら、研究者には作法的な制限や限界があっても、当事者の日々にはそのような制限はなく、四六時中研究者の研究する課題や問題を生きているからである。当事者が課題や問題を「フルタイム」で経験しているのなら、研究者は「パートタイム」的に観察しているからである。その非対称性が私の中の当事者が納得しない理由である。(大川 2023: 46-47)

正直なところ、ここまで誠実な研究者はかなり珍しいだろう。そして、インタビューでも見てきたが、ここからもヘナンさんの「研究者性」に対する批判的な姿勢が、彼の「当事者性」によって強く支えられていることがよくわかる。いずれも大川へナンさんだからこそできることだと、改めて感じさせられた。


参考文献

鄭暎惠,1996,「アイデンティティを超えて」井上俊也ほか編『差別と共生の社会学』岩波書店,1-33.
井本由紀,2013,「オートエスノグラフィー」藤田裕子・北村文編『現代エスノグラフィー――新しいフィールドワークの理論と実践』新曜社,104-111.
太田晴雄,2000,「日本国籍を有しない子どもの不就学の現状――基礎教育を受ける権利を享受できない子どもたち」『外国籍住民と社会的・文化的受け入れ施策』文部省科学研究費補助金基盤研究B研究成果報告書,101-117.
大川へナン,2023,「『当事者』と『研究者』の関係を問い直す――移動する『私』のオートエスノグラフィーを手がかりに」『異文化間教育』57: 33-53.
清水宏吉・清水睦美,2001,『ニューカマーと教育――学校文化のエスニシティの葛藤をめぐって』明石書店.