相互理解

松原マリナ氏インタビュー(NPO法人関西ブラジル人コミュニティ代表)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

松原マリナ氏インタビュー(NPO法人関西ブラジル人コミュニティ代表)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

《松原マリナさんは2024年3月19日にご逝去されました。》

外国にルーツをもつ子どもたちが、自国の言語や文化を学ぶことで自身のアイデンティティを確立し、自信をもって生きていけるように支援する場所が神戸にはある。またそれは、日本社会との「交流の場」であると同時に、お互いに協力し、助け合う「自助・互助の場」としても機能している。それが「NPO法人関西ブラジル人コミュニティ(以下、CBK)」だ。

ここでは、主にブラジルにルーツを持つ関西在住の子どもたちにポルトガル語や日本語を教えることを主要な事業としており、そのほかにも「移民祭」をはじめとしたさまざまな交流事業が展開されている。

このCBKで長年代表を務めてきたのが松原マリナさんである。

1953年、「日系人」としてブラジルで生まれたマリナさんは、1988年に日本に渡り、ここでの生活は35年目になる。現在69歳。人生の半分をブラジルで過ごし、もう半分を日本で過ごしたことになる。そんなマリナさんは、これまでの人生をどのように振り返るのか。また、マリナさんが約20年を捧げ、子どもたちのために尽くしてきたCBKの過去と現在、そしてこれからについて、話を伺った。


日系人としてブラジルで生まれる

――マリナさんが生まれた場所はどこですか。

ブラジルのサンパウロです。サンパウロ市内の中心部。

――小学校はブラジルの公立学校を出ましたか?日系ブラジル人の学校はありましたか?

そうです。私は全然知らなかったんですけど、当時日系ブラジル人の学校もあったと思います。

小学校の頃、学校の後にボランティアで日本から来た先生に日本語を教えてもらっていました。先生も色々と日本の遊びを教えたり、歌を歌ったりしてくれて。本当に自由な授業でした。

――ご家族について教えてください。

私の家族はちょっと複雑なんだけど、私は末っ子で2歳の時、養子で叔母(父の兄妹)の家に行きました。
お父さんが亡くなって、子どもも〔自分を含めて〕3人いましたし、おばあちゃんとおじいちゃんもいたんですよ。

それで、お母さんは生活していくのに大変だったんですよね。2歳まではもとの家にいて、それから養子縁組で叔母の家のほうに行ったんです。

――おじいちゃんとおばあちゃんもいて、三世代。それでマリナさんは末っ子だから、養子に行くということになったわけですね。

そうです。お母さんは仕事をしなきゃいけなかったから。当時、椅子〔藤椅子〕の座面のところを編む機械があったんです。お母さんはその機械で椅子を一生懸命作っていてね。それでも食べる人が多かったから生活するのに苦労して。それで、養子縁組にしたらどうかって意見が出たみたいですね。

――家では日本語を使っていましたか。

そうですね、親たちは日本語でしゃべっていました。小さい頃から家で日本語をよく聞いていましたが、読み書きはできませんでした。ボランティアで日本語を教えてくれるところも、小学校2年生になって親が行くのはもうやめたほうがいいって言って辞めさせられて…。私は本当に続けたかったけど、親はポルトガル語だけを勉強したほうがいいということで。

――その後中学、高校を出て…。マリナさんは確か、大学も出られているんですよね。

はい。大学に行く前に、高校を出た後タイプライターの学校にも通っていて。私の時代は、女性はタイプライターを習うより、編み物とか縫い物とかをするのが普通だったんですよ。だけど私はそれをするのが嫌だったんですね。それでタイプライターの学校に入りました。

大学では法律の勉強をしてたけど、それは私には向いてないっていうことで、大学は2年でやめました。で、裁判所で働いて。〔勤務年数は〕どのくらいいたか、ちょっと覚えていないけど。その後、また勉強したいと思うようになって体育大学に入り直しました。そのとき〔体育大学に〕ネルソン がいたんですよね。

来日と定住

――その後、マリナさんが日本に来たのは何年になるんですか。

1988年です。はじめて来たのは北海道でした。

――じゃあ入管法の改定(1990年)で、日系ブラジル人の人たちが日本に来れるようになった前の時期なんですね。そのときのビザは何になるんですか?

最初はネルソンがスポーツの関係でビザを取ってたと思います。その後、〔ネルソンさんの勤め先である〕札幌マツダの人がいろいろと調べてくれて、〔日系人〕2世だから、「日本人の配偶者等」っていう資格を持ったほうがいいよって言われて変えたんです。私はその家族、ネルソンの妻なので定住者になります。

――札幌マツダが、ネルソンさんがコーチをしていたサッカークラブなんですね。ネルソンさんはどういう経緯で日本のチームから声をかけられたんですか?自分で探してきたんですか?

その前に日本に来てたからね、札幌大学に留学生として。でも実際の内容はサッカーする目的で。
でも当時は日本語が全然わからなくて。よく主人も言ってたけど、教室入っても何をしてたか分からなかったって。日本語で言ってること分からないし、勉強も分からなかったから。もうサッカーだけするという。それで、そこの責任者の先生がそこ〔札幌マツダ〕で仕事してたから。ちょっと大学の名前までは覚えてないけど。

そのあと、ネルソンが1回ブラジルに帰って。結婚したのは78年です。日本に来たのが1988年です。

――一番上のお子さんはブラジルで生まれたんですか?

みんなブラジルで生まれた。一番下の子が生まれた時も私一度ブラジルに帰ったんです。どうして帰ったかというと、当時は日本で子どもを生んだら、手続きとか結構ややこしかったのよね。領事館とかでいろいろするのに。それでネルソンは、ブラジル帰ってそこで手続きとか終わってから、また来たほうがいいだろうということで。

――札幌に来て、サッカースクールのコーチしながら生活をして…。札幌には88年から何年まで住んでたんですか。

92年くらいまで。4年間くらいいました。それで、その次に岡山。岡山もサッカーのコーチとして呼ばれました。岡山も3年か、4年くらいいたね。

――岡山の後、神戸に来て…。震災の時は神戸にいなかったんですか?

ちょうど震災の時、神戸に来ました。95年の3月。

――1月に地震があったのを考えると、大変な時期に来たんですね。

そう。本当は地震の日にネルソンは、神戸に来るんだった。スーツケースも全部準備して。そしたら電話が来て、地震があったからちょっと延長しましょうということで。それでちょっと長引いたね。神戸で練習するところもなかったし、グランドね。私たちは一時的にブラジル帰ったんですよ、神戸来る前。その時、川鉄のそのチームはもうみんな神戸に来てた。選手たちと、コーチもね。そしたら地震があった。だからみんな、また岡山にバックして。

――ネルソンさんはずっと日本でサッカーのコーチをやってたんですよね。マリナさんは日本に来てから子育てもあったかと思いますが、なにか働いていましたか?

最初札幌にいたとき、セブンイレブンでアルバイトやってました。あと体育大学を卒業してたから、短い間だったけども札幌にあるプールでコーチもしていて。少しでもお金になるから。〔プールのコーチは〕1年くらいやったかな。ブラジルで水泳のコーチもやってたんですよ。その経験で5歳、10歳までの子どもに水泳を教えていました。

岡山行ってからは仕事はやってなくて。ネルソンも社員として川鉄で仕事してたから。コーチをやっていない時は事務かなにかをやってたと思います。

神戸に来てからは、やっぱり人生が変わったね。ネルソンはヴィッセル神戸に行ったけど、私は全く日本語を勉強していなくて。何かしなきゃいけないって思って。最初の頃、アルバイトはピザ屋なんかでちょっと働いて、ラーメン屋でも働いたんです。ラーメン屋では私、すごく馬鹿にされた。〔他のスタッフが〕私に対してすごく偉そうで、言葉遣いとかも。女性に対してすごい失礼って思ったんですよ。それで頭に来て、店長にはっきり言ったんだよね。「日本国籍じゃないからって馬鹿にするな」って。「私にはわからないことはいっぱいあります。〔馬鹿にするんじゃなくて〕きちんと説明することが大事ですよ」って言って。ブラジルから日本に来た時点でなんでも分かってたら、それはもう私は素晴らしい人ですよ。でもそんなはずがない。やっぱりラーメンとかもそうだけど、外国人には順番とかやり方とか、細かくきちんと説明するべきって言ったんですね。

ほかにも神戸に来てからは入管で少しアルバイトをしました。あと日本の学校にサポーターとして、空いている日は行ってました。
神戸で言われたのは、神戸にもブラジルの子どもが多いよってことでした。それでポルトガル語の翻訳とかもするようになって。でも私は日本語も読み書きできなかったでしょ。どうやって翻訳するのかもさっぱりわからない状態で。で、パソコンの前に座らされてパソコンをこうやって使うんだよって。それまでパソコン使ったことなかったからね。それが最初のスタート。

言葉の障壁

――日本語はブラジルにいた時から家で使ってたり、1年ぐらいですが日本から来た先生に教えてもらっていましたよね。ほかに日本語を使う機会はありましたか?

親と話すだけ。周りは全部ポルトガル語だから。だから読み書きもできなかった。

――日本に来てから、日本語はどうやって勉強しましたか。

もう1人で勉強したね。
〔漢字辞書を見せながら〕これ、北海道にいたときに、サッカーチームの責任者の奥さんが、子どもがもう大人になったからってくれたんですよ。これで勉強してみてくださいって。

――それを今でも持ってるというのは、何か思い入れがあるからですか?

まあね。最初これをもらった時はそんなに大事に思わなかった。後で神戸に来てから、パソコンを使って翻訳する時とかによく使っていました。漢字を覚えるのが本当に大変で、当時は「山」とか「川」とかしか知らなかったね。もうこんなふうにカバーも取れちゃうくらい、これをもう必死で勉強して…。

――ずっと1人で勉強されてたんですね。

そうそう。子どもたちが寝てから夜1人で。まあ、子どもたちもそんな余裕が無かったからね。お姉ちゃんが、たまにこっそり教えてくれることもあったけど。あとはもう全部1人で。

――お子さんとはポルトガル語で会話していましたか?

最初にブラジルから来た時は、子どもたちも結構ポルトガル語をしゃべっていたんですね。後でだんだんと使わなくなって。私たちが日本語で説明しないと子どもたちは分からなかった。

――だんだんとポルトガル語が通じなくなってくるんですね。

そう。日本に来て、子どもたちもポルトガル語を覚えようとしなかった。どうしてかというとやっぱりもう日本語を勉強するので必死で。学校に行って、日本語ができないといろいろ、まぁいじめにあったりだとか。

助かったのは先生たちがすごく熱心だったこと。札幌にいたとき、一番上の子は最初、1ヶ月くらい学校に行かなかったんです。学校に行く時間になったら毎回熱が出ちゃって。それで授業が終わってから先生が毎日家に来てくれたんですよ。「今日はどうだった?」とか「泣いた?」とか「熱出た?」とか。休みの時には遊園地に連れていってくれたり、動物園とか、海にも連れて行ったりしてくれました。

――札幌と岡山と神戸に住んで、札幌の先生が一番良かったですか?

札幌の先生はすごく良い人でした。後で神戸に来てからも、3人とも同じ高校に進学して、たまたま同じ〔担任の〕先生になったんですけど、その先生が外国人だからっていうんじゃなくて、生徒としてどうすればいいかを一生懸命考えてくれて。大学に行くのにもすごく世話してくれたんですね。その先生がいなかったらたぶん子どもたちはもっと大変だったと思います。

私は子どもが中学生とかになると、全然サポートできなかったからね。小学校の算数とかだったら、子どもたちに聞かれて、なんとか優しい日本語で説明して、本当にわずかだけど教えることができたくらいで。

――勉強する内容もどんどん難しくなってきますし。

そう。だから私が神戸に来て、小学校でサポーターとして働き始めた時、いつも感じていたのは子どもたちがどうやって勉強して覚えたんだろうということ。学校の教室とか職員室に入った時も、周り全部日本語でしょ。何書いてるか全然分からなかった。大人の私がこんなにも分からないのに、自分の子どもたちはどうやって勉強して覚えたんだろう…。いつも思ってた。特に〔一番上の〕お姉ちゃんは6歳で日本に来たから、大変な思いをしたんだろうと思うのよね。いつもシーンとして、しゃべらなかったし、笑わなかった。この子が大丈夫かなっていつも心配だったんですよ。

言葉と文化を教える場所、関西ブラジル人コミュニティ(CBK)

――今は仕事といえばCBKなんですかね。

そうですね、今はもうCBKで。

――CBKは何を、どんな目的でやっている団体ですか。

これは最初から変わっていません。大事にしているのは、子どもたちにポルトガル語を教えることです。読み書きだけでなく、ブラジルの色んな文化も同時に伝えていく。それを私たちは20年以上続けてきています。これからも私の目標は、子どもたちにポルトガル語を教えていくこと。だんだんと最初の〔基礎的な〕ポルトガル語だけじゃなくて、動詞の活用、助詞、主語・述語とか〔教える内容が〕すごく進んでいってます。

ポルトガル語を教えるには、私も勉強が必要です。文法は日本語と違うから、まずはポルトガル語をよく理解して、それを日本語で説明できるようにしてます。ブラジルの教科書を持って、これだよってポルトガル語で説明しても〔子どもたちには〕分からないから。それを日本語で説明して勉強を進めています。

――とても聞きづらいですけど、CBKでマリナさんはどのくらい給料もらっているんですか。

手取りで20万超えないくらい。ボーナスはないですね。CBKに来てからずっと同じです。

――大変ですね。こんな働いてて。

ほかにも社員は1人とアルバイトが3人います。助成金と海外移住と文化の交流センターの委託費でなんとか。最初ここに入るとき、条件がすごく厳しかったんですけど、このまま状況だと私はここを続けられないと神戸市に言って。いろいろ話し合ってこの条件でやりましょうということで。

――日本で生まれたブラジル人の子どもたちはたくさんいますが、なぜポルトガル語が必要だと思いますか。

人間って、言葉覚えるほど賢くなるんです。世界が広がるんです。日本にいるから日本語だけで十分って考えには私は納得しない。だからここではポルトガル語を勉強するんです。

ここで10年以上勉強した子どもで、今年2人が大学入りました。ほかにも、ここで勉強した子で海外に行ってる子も多いです。CBKでの経験の大事さを、大きくなった子どもたち自身が感じていると思うんです。

――CBKに通ってる子どもたちって、自分がブラジルのルーツを持ってるっていうことをとても前向きに捉えていますよね。

そう。やっぱり言葉を覚えていくことで広がりが見えてくる。親と会話できたり、お母さんお父さんたちがしゃべっているポルトガル語がだんだん理解できるようになったり。そうやって少しずつつながっていく。

日本語だけだと、家の中でも親たちが子どものことをちゃんと分かってくれない。これはすごく残念なことです。私は、そんな子たちが本当にかわいそうだと思います。

――本当にすばらしいことをされていると思います。ただ、こういうことをしてるととても苦労されますよね。マリナさんにとって、苦労してもやっていける原動力はなんだと思いますか。

元気でやってるように見えるかもしれませんが、今はこのように病気になって…。でも、私はガンになってからも諦めず、ここで負けちゃダメだって思いながらずっと続けてきています。残念ながら自分の子どもたちにはあまり伝えることできなかったけども。勉強したい、覚えたいという子どもたちがいる限り、私は一生懸命、心から教えます。
ここで勉強した子どもたちが帰ってきた時はやっぱりうれしいです。特に私が今病気ってことを分かっている人たちは「マリナさん、元気?」って会いに来てくれる。そういうことが最近は多いですね。

――CBKでマリナさんの次の世代の担い手はいるんですか。

まだ難しいね。でも、私はできれば今の活動を続けていってほしいと思っています。これからも日本語も教えるし、ポルトガル語も伝えてほしい。

あとはブラジルの文化をみなさんに伝えてほしいですね。例えばカーニバル。カーニバルの話が出たら恥ずかしいと思う人が多いけど、CBKではよくカーニバルっていうものの意味がどういうものなのか子どもたちに説明するんですよ。ただ女性が裸でダンスしているんじゃなくて、あのダンスには意味があって、歴史がある。実はカーニバルの内容はすごく深いんだよってよく子どもたちに説明するんですよ。イメージだけじゃなくて、やっぱりダンスを通して、歌を通して、それを伝えていくのが大事じゃないだろうかって私は思うんです。民話も一緒です。ブラジルの民話を伝えていく大切さっていうのが、ここに来てた子どもたちはやっぱり覚えてると思います。民話を学んだとか、こんな劇をしたとか。すべて勉強したことには意味があるから。

――日本の学校で、日本人と変わらず通っていたら文化を学ぶきっかけが一切ない。でも、マリナさんから教わった経験があると、もしかしたら後になって勉強しようかってなりますよね。きっかけが与えられていると、それがチャンスになっていくという。そのきっかけを提供する場がまさにCBKですね。

そうそう。

今、長女がブラジルで暮らしています。長女の子どもがこれから小学校に上がるんですよ。で、彼女はブラジルのことを知らないから、幼稚園で子どもたちが歌ったり踊ったりするのが珍しかった。子どもはいつもお父さんに「この歌なんの意味?」って聞くみたいですね。お父さんと子どもが話す。それで彼女も悩んだみたいですね。理由はやっぱりブラジルで教育を受けてないから。娘は民話とかあんまり聞いていない環境で育ったから。子どもが来年1年生になるけども、やっぱり自分は全部のサポートはできないって。娘は私が当時日本で経験したことを今ブラジルで経験してるようですね。勉強もそうだけど、文化が違うというのはすごく大変で、分からないことも多いと思うんですよね。娘は今、参観日とかも全部行ってるみたいだね。子どもに近づくためには学校で何をやっているか、それを理解していかないと難しくなっていくからね。日本も一緒ですよね。ここ〔CBK〕では日本の文化とか、やっぱり先生たちが説明したりして、いろいろな経験を子どもたちにさせてます。

共生社会への課題

――日本の学校とか役所とか、日本社会は日系ブラジル人に対して扱いが良いと思いますか。昔のことを含めて処遇は適切かどうか、マリナさんの考えを教えてください。

最初の頃は外国人だからって言って学校があまりにも丁寧すぎたと言うか、「お客さん扱い」だったと思います。ただ〔職員室の〕先生の席のそばに座らせて、ただお茶飲んで、それで終わり。それでなにかやったように思ってるかもしれないけど、それは何もしていない。もちろん全員の先生がそうではないですけどね。

それで、私はサポーターの仕事をしていた時、先生に何度も言ったんです。「子どもたちは日本に来て、勉強することが一番大事なんだからそれを教えてあげて欲しい。こんな状態の子どもをほうっておいたらもっと大変になる。子どもには怒ってもいいからきちんと勉強をさせて欲しい」って。〔子どもを〕信用することが大事です。

今はブラジル人の子どもが減って、ほかの外国の子どもたちが増えています。学校の先生たちは、〔かれらの〕言葉はわからなくても、言葉をはっきり言ってあげるとか、ゆっくり丁寧に教えてあげるとか、とにかく見本を見せるのが大事です。子どもは分からなかったらふーんと言って無視しちゃう。無視しないように先生の努力と我慢が必要です。

まだまだそれが〔外国ルーツの〕子どもたちに十分に伝えられていない。伝えるということ教えるということ。それを我慢強く続けていたらこの子たちは絶対日本社会の役に立つと思います。前に名古屋で殺された男の子、エルクラノ。あれはやっぱりそういったコミュニケーションをとれる存在がいなかったことが原因だと思います。

――日本の多文化共生に関する政策は日系ブラジル人の意見が反映されていると思いますか。

されていない。ただ「多文化共生」って言葉使ってるけど。内容としてはどこまでやってるか〔が疑問〕。よく会議行っても「多文化共生」っていうけど、この時期に結局何をやってるんでしょうかっていう。ただ「多文化共生」って言葉を教えるだけじゃなくて、相手の国のことを知る。で、日本のことを伝える。それが多文化共生ですよね。

――双方向的に取り組んでいくということですね。

そう。日本人は自分の知りたいものだけ集めているような感じ。会議でも同じなんですよね。自分たちが知りたいことだけまとめる。私たちが意見出しても聞いてない。どうするか、何をしたほうがいいか、こういうことが全部一方通行なんですよね。なんで話し合わないのかと。話し合って、何が一番いいか決める。そういうふうに考えてやっていかないと多文化共生っていうのは難しいと思います。

――日系ブラジル人のために日本の政府、あるいは兵庫県とか神戸市がやるべき政策として必要なものはありますか。

やっぱり助成金。特に最初の頃は。活動考えてプログラム決めて、これを続けていけるかなというのがすごく不安定だった。今は結果が出てるから、なんとか続けていくことができているけど。さらに続けていくためには、もっと新しいこと、子どもたちが興味を持つようなことを何かやって欲しい。パソコンだけじゃなくて、もっとほかのことも。子どもたちが考える力を育てるようなこと。座ってじっとしていることだけでなく、体を動かすことも大事ですね。

これは教育委員会もそうだけど、やっぱり自分たちのやり方を続けたい、なにか新しいことをやってしまうと大変だ、面倒くさいという考えがありますよね。よく言うんだけど、違うことをやることですごく素晴らしいことができるようになる。すごく可能性があることなんです。特に公務員はその面ではあんまり動いてくれないね…(笑)

――マリナさんたちの意見が新しい多文化共生の政策に反映させるためにはどんなことをしなきゃいけないと考えますか?

いやぁ、わからない。難しいですね。でも、活動する中でいつも言うことですけど、市でも県でも普段私たちがどんなことやってるか、まずは見に来てほしい。イベントがある時だけでなく。〔子どもたちに〕教えるのにどんなことが大事か、とか。だからまず、現場のことをちゃんと知ってほしい。前は全然来なかったんですよね。最近はちょっと来るようになったけど、それでもまだまだだと思う。私たちがここで経験していることを向こうの人たちにも伝えたい。何をどうやっているかという説明は足りてないし、もっと〔現場での経験を伝える機会が〕必要だと思います。

インタビューを終えて

以上、松原マリナさんのお話を伺った。まずはインタビューに協力していただいたマリナさんに感謝を伝えたい。

ある人の人生を「苦労話」とみなし、語る時、しばしば彼あるいは彼女を困難な状況下に置いてきた外部状況(「社会」といってもいいし、「制度」といってもいいだろう)は不問に付されてしまう。マリナさんの半生は、さまざまな障壁と困難の連続であったが、ここで問われてくるのはわたしたちが彼女の語りをどう受け止めるか、である。

1988年に家族で日本に渡り、周りに助けてくれる友人や親族がいない中で仕事や子育てに奮励されたマリナさん。アルバイト先のラーメン屋では、外国人であるという理由でスタッフに差別を受ける経験もあった。また、日本語の読み書きができなかったため、夜中に子どもたちが寝静まったあとで1人必死に日本語を勉強した。6歳で日本に来たお子さんは、学校に馴染めず、塞ぎ込んでいく。そんな中、日本で教育を受けてこなかったマリナさんは、子どもに十分なサポートができなかったという。「子どもたちは本当に大変な思いをしたんだと思う」と語るマリナさんは、時折目に涙をにじませていた。

こうした困難が、言葉と文化を教える場であるCBKの原動力となっていることは確かであろう。マリナさんの語りからも、CBKの意義がひしひしと伝わってくる。しかし、それでもやはり、わたしたちはマリナさんの経験を単に「苦労話」として消費してしまうのではなく、そこから先に進んでいかなければならない。何が彼女を困難にさせ、苦境に立たせたのか。ひとつひとつのエピソードから、それを考え、取り組んでいくべき課題を発見する手がかりが示されていよう。

また、多文化共生の施策についても、マリナさんから重要な指摘があった。方針を決める際に「どうするか、何をしたほうがいいか、こういうことが全部一方通行になる」。現場の意見が届かないという状況下で、政策と実践の間に齟齬が生まれる。このようなことを、マリナさんはこれまで何度も経験してきたという。

こうした状況を打開するための方法について、「難しい」と言いながらも、マリナさんの訴えは一貫としているように思われる。まずはCBKに来て、自分たちがやってることを知ってほしい。そして、自分たちの意見に耳を傾けてほしい。これである。共生とは、理念ではなく実践から経験的に勝ち取られるものだとしたら、わたしたちは机上で何か新しいアイデアを生み出すことによりも、まずマリナさんたちの取り組みを知り、現場の声を聞くことから始めなければならない。