相互理解

FUNI氏インタビュー(ラッパー・詩人)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

FUNI氏インタビュー(ラッパー・詩人)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

 1970年代にアメリカの都市中心部(インナーシティ)で誕生したヒップホップは、当時のアメリカ社会における黒人をとりまく状況と深く結びついた文化、ムーヴメントであった。貧困、家庭問題、犯罪、警察暴力――いうまでもなく、それらの根幹には黒人に対するレイシズムが大きく横たわっている――をはじめとする都市生活の過酷な現実に直面するなかで、かれらはその苦悩や怒りをブレイクダンスやラップという手段で表現していった。
「ブラックカルチャー」として出発したヒップホップは、いまや人種や国家を越えて、多くの人々に受け入れられるようになった。現在、最も「売れる」エンターテイメント産業の1つとして、ヒップホップはその地位を確立しているといっても過言ではない。街を歩けばラップが聴こえ、ストリートファッションを身にまとった若者を見かける。
しかし、こうした広がりにあっても、1970年代当時のヒップホップのイマジネーション、そしてその社会的・政治的性格が決して「過去のもの」になったわけではない。戦争、暴力、搾取、差別、窮乏、これらが依然と蔓延する今日にあって、ヒップホップは社会と常に関わりつづけている。不条理な現実への怒りとよりよい社会への夢を、言葉に紡ぎだし、表現している人びとがいる。
今回取材をおこなったのは、ラッパーであり詩人として活躍するFUNI(郭正勲)さんである。川崎生まれ、川崎育ちであり、朝鮮半島にルーツを持つ在日コリアン2.5世のFUNIさんは、2002年にラップデュオである「KP(Korean Pride, Korean Power)」を結成し、東芝EMIよりメジャーデビューを果たした。また、2004年にはNHKハングル講座にラッパー講師として出演した経歴をもつ。現在、彼の表現活動は教育、学びの領域であるアカデミアでも注目されており、各地の大学でのパフォーマンスや、「ヒップホップセラピー」を軸にしたラップワークショップなどをおこなっている。
「豊かさと成長」という神話が揺らぎ、社会全体で閉塞感が蔓延する中、排外主義が激しさを増す日本というステージで、FUNIさんはこれまで自身の体験をありのまま言葉に紡ぐことで救いのありかを見出してきた。今回は、そんなFUNIさんの表現の源泉となってきたこれまでの体験や、ラップに対する向き合い方などについて話を伺った。


川崎で生まれ育った幼少期

――FUNIさんは何年生まれなんですか?

1983年の5月6日です。

――お生まれは日本ですよね?

そうです、川崎市(神奈川県)です。

――川崎市なんですね。それで確か4歳の頃に1年ほど親元を離れて韓国に行ってたんですよね?

そうです。韓国の浦項(ポハン)っていうところの、盈徳(ヨンドク)っていう地方都市です。蟹で有名なところですね。母の出身の漁村です。

――浦項というと、有名な製鉄所があるところですね。

あ、そうです。ポスコ(POSCO、旧称:浦項総合製鉄)があるところで。そういう意味では川崎とも似てるかもしんないですね。川崎も日本鋼管(現JFEスチール)があるんで。

――当時の記憶ってあるんですか?

めちゃめちゃ残ってますね。なんで残ってるのかわからないですけど、やっぱ大変だったんで。

――韓国には1年だけ行って、5歳の時にまた川崎に戻ってきたんですか?

そうですね。

――在日コリアンのお父さんと韓国出身のお母さん。ご両親の結婚はお見合いでしょうか?

そうです、お見合いです。なんか騙されて行ったみたいなんですよね(笑)。ハルベ〔祖父〕に「母国訪問するぞ」みたいな感じで連れられて、30歳くらいで初めて韓国行って。よくわかんないんですけど民俗村みたいな、そういうの見て回って、その後博物館に行くってことで行ってみたら、それがお見合いだったみたいで。そういうのが当時よくあったみたいですね、騙されてお見合いするみたいなのが。

――FUNIさんはご兄妹はいらっしゃいますか?

います。4人兄妹です。

――FUNIさんは何番目なんですか?

2番目です。兄貴が3つ上で、弟が3つ下、妹が8つ下です。兄貴と俺と弟は中学校一緒だから同じ色のジャージで、安く済んだんですよ。弟は兄貴のランドセルを小学校1年生のときに、もうぺしゃんこになってるやつを入学式に持って行くみたいな(笑)。そういう意味で一番可哀想なのは弟でしたね。

兄貴は長男っぽいって言ったら変ですけど、鉄工所継がなきゃいけないのが決まってて、長男役をやってくれてる。もう決まってるからみたいな、〔あらかじめ決まった〕運命をたどっている兄貴がいて、その次に絶対そんなのやりたくないっていう弟〔=FUNIさん〕。そしてそれを見ている三男はアメリカに行ったりして、俺よりもっと要領がいいっていうか。

あとは男ばっか育てた後に生まれた妹は、うちの親の教育がすごい強かったんで、それに耐えられなくなったんですよね。高校ぐらいの時に彼女は相談を受けたんですけど、カウンセラーいわく両親は虐待だったと。僕もそれを聞いて初めて「そうなんだ」って〔気づいた〕。暴力的っていうのもあるけど、それよりもハードな民族教育というか。お前は朝鮮人、韓国人なんだってことを忘れるなっていうのが妹には相当プレッシャーだったんだと思います。自傷行為もするくらいだったんで。

――民族教育というのは具体的に、民族の行事を大事にしたりだとかですか?

そもそも父親と母親って国際結婚ですから、互いに違う文化で生きてきた人たちですよね。違うところで育ってきたけど、お互いにすごいコンプレックス持ってて。それで日本社会で在日コリアンってこれだけ虐げられてる、みたいなところはすごく2人で共有するものがあったと思うんですよね。

そこでよく言われるように「日本の人より3倍頑張れ」とか、〔子どもに対して〕そういうプレッシャーは大きかった。「日本人に負けるな」とか。勝ち負けの話になったり。もっと言うと「日本人と付き合うな」とか、「結婚するのは韓国人だけ」だとか。その割には日本の学校に通いながら韓国人自分だけっていう(笑)。

――FUNIさんの地元は川崎の中でも在日コリアンが集住しているエリアではなかったんですね。

僕は大師なんです。桜本から1キロぐらいしか離れてないところなんですけど、全然違うんですよ。桜本はやっぱり「特区」っていうか。たぶん大阪で言うと鶴橋みたいな感じですよね。学校の生徒の半分は在日、みたいな。大師の場合は〔在日が〕いるんだろうけど、隠しているからか分かんなかったです。

――ということは大師にある鉄工所が実家?

そうです、町工場です。くず鉄〔=スクラップ業〕から始めたんですけど、隣の工場に「悪いように使わないからフランジ(金属加工の一種)やってくれ」って言われて、くず鉄から鉄の加工になって。その後バブル崩壊で定期的に仕事が来なくなってから、親父が下請けだけじゃなくて営業もやりはじめて、それを機に独立したって感じですね。今兄貴がそれを続けています。

母親が結婚した時、母親の兄弟たちがうちの工場にドバッと働きに来たんですよ。それで今じゃ考えられないんですけど、当時はオーバーステイも結構いて。

――そうですね。親戚であれば3ヶ月の親族訪問しか認められていませんからね。当時は生活していくために日本に働きに来て、そのままオーバーステイになる人も多くいました。

それで強制送還された母親の弟や、こっちで生まれた子どもたちもいれば、オーバーステイから在留特別許可を勝ち取ったっていう人もいて。だから僕はほかの在日よりももしかしたらもう少し強制送還とかっていうのをリアルに見てきたのかもしれないですね。

地域のコミュニティとしての教会、ラップとの出会い

――5歳で日本に戻ってきてからは、日本の幼稚園に行きましたか?

在日韓国基督教会が母体になって開設した桜本保育園(1969年開設)っていうところです。李仁夏さん(在日韓国基督教会川崎教会牧師)が園長やってました。まあ安いインターナショナルスクールっていうか、アフリカの子もベトナムの子もいたりしたんで、当時から。

僕の場合在日大韓基督教会が軸になっていたので、民団とか総連とかっていうところでコリアに触れることはなかったんです。でも青丘社みたいなところが地域としてあったんで、そこを通してコリアに触れられたっていうのはすごくでかいと思ってるんですよ。

――青丘社っていうのはふれあい館(1986年開設)を運営しているところですよね?

そうです。青丘社は社会福祉法人の形を取って、保育園とかふれあい館の運営やってますね。

――教会に行くようになったは韓国出身のお母さんの影響が強いんですか?

母親自体はもともとキリスト教じゃなくて、1979年くらいにこっち〔=日本〕に来てからやっぱり人と話したいっていうか、寂しかったんですよね。それでそこをサポートしてくれたのは川崎教会(在日大韓基督教会川崎教会)だったんですよ。そこに親父も無理やり連れて行って、そしたら父親もハマったんですよね。

――そこの教会は韓国語で礼拝したりするんでしょうか?

川崎教会の場合は必ず日本語で礼拝した後、韓国語で礼拝するんですよ。僕たちはそれが苦痛で。何言ってるかわかんないじゃんみたいな。そういう時間を過ごすわけですよね。でも牧師曰く、これが絶対財産になるからと。それが役に立ったかどうかは置いといて、フィジカルとして残ってるものはありますね。

――当時の川崎教会っていうと、金健(キム・ゴン)牧師のときですかね。

そうですね。もっと言うと金性済(キム・ソンジェ)牧師が一番僕に影響を与えた人で、彼はアメリカから帰ってきて、アメリカのスタイルを川崎教会に取りこんだ人なんですよ。だからラップもやっていいよって感じだったんですよね。やっぱりお年寄りとかいるところでいきなりヨーヨーとかやったらちょっとあれじゃないですか(笑)。でも〔金性済〕モクサニム(牧師の敬称)はアメリカにいたんで、「いいじゃん、表現しなよ」みたいに言ってくれて。それは在日だけじゃなくて、ブラックカルチャーとか、そういう別のレンジがあったからなんですよ。

そもそもかつて李仁夏さんがジェームズ・H・コーンっていう、黒人解放運動のなかで「黒人神学」っていうのを打ち立てたことで有名な牧師を招聘して、あなたたちは「黒人のため」とか言ってるけど、あなたたちを見て日本社会で私たち在日もここまで闘ってる。だからそんなに「黒人だけの」なんて言わないでください、って言った時に、ジェームズ・H・コーンは、これはすごいことになってるって認識したんですよ。(※1)確かに黒人だけの問題じゃないなってことに気づいて、その発見を持って帰って黒人神学をさらに発展させていったんですよね。

僕は系譜的にそれと地続きにいると思っていて、そうなるとラップってすごく当然という気持ちになる。アメリカで公民権運動ちょうどやってる時にも、こっちで就職差別撤廃闘争とかやってて、それで国を越えて交流する中で、お互いスゲーじゃんって相互に認識するようになって。そういうのを僕はラップでやろうとしてる。

(※1)土屋和代によれば、コーンは李仁夏さんから講演の依頼を受ける際、「あなたはあなたの物語を語ってください、われわれはそれを調整し(adjust)、解釈しなおします(reinterpret)」と言われたという。その後、在日キリスト者との交流は「自らの視野を拡げ、世界史・比較史的な視点から『黒人神学』を理解することを助け」、黒人神学の射程を拡げるきっかけとなっていく(土屋和代,2011,「『黒人神学』と川崎における在日の市民運動」樋口映美編『流動する〈黒人〉コミュニティ――アメリカ史を問う』彩流社,173-202)。

――なるほど。なぜラップなのかっていうのが少しずつわかってきた気がしました。金性済さんにお会いしたのは何歳の頃だったんですか?

14歳ぐらいでしたね。その頃はまだ日本のアンダーグラウンド文化も知る人ぞ知るっていう時期でもあったんですけど、性済さんはアメリカでの体験があったんで。この川崎教会ってどういうところかっていうと、パイロットの息子も来ればコリアンパブの息子も来るというようなところで、非常に多様だったんです。同じコリアンという属性でも、金持ちもいれば貧乏人もいるし、優等生もいれば不良もいると。

そういう中でヒップホップの流れもあった。ラップを知ったのは、そこにいた不良の先輩がこのCD聞いてみろって言われて、試しに聞いたら衝撃受けたのがきっかけなんですよ。そもそも不良がたまってもOKな教会だったっていうのが、性済さんがいないとできなかったことでもありました。

――ラップをやりはじめたのも、その教会の先輩がくれたCDがきっかけだったんですか?

そうですね。その後これをやろうということでクリスマス会で発表したりもして。クリスマス会で発表して絶対怒られるだろうなって思ってたら、意外にもハルベ(じいちゃん)とかハンメ(ばあちゃん)がめっちゃ感動してくれて。え、俺14歳とかなのにこの人たち感動させられんの?って気づいて、嬉しかったですね。

世の中では何が一番かっていうと、どれだけコリアンか、コリアンらしさ、みたいなのがバロメーターだったから、ある意味で教会は逃げ場だったんですよ。そこには親以外に自分のタレントを認めてくれる人がいたっていうことがでかいんですよね。

高校〜大学時代、「KP」としての活動

――ご両親って教育熱心だったんですか?FUNIさんはのちに中央大学に進学されましたよね?

めっちゃ勉強してどこどこに進学して学者になれとか、そういうことは言わなかったです。勉強すれば大学に受かるとかっていうのが分かんなかった人たちだと言うか、そういう手触りがなかったんだと思います。かといって働けって感じでもなかったっていうか、勉強できなくてもいいから真面目に生きなさいっていうような人でしたね。

――保育園の後は地元の公立の小中高に進学されたんですか?

そうですね。高校は生田高校ってところを出ました。〔生田高校は〕北部なんですよ。北部の新百合ヶ丘とかそのあたりです。

――北部だったらお金持ちもいたりして、南部とは結構ギャップありますよね。

そうです。小田急ラインとかが繋がっていて、要するにホワイトカラーのベッドタウンなわけですよね。川崎南部はブルーカラーだったんで、高校に入って環境がガラッと変わって。学校まで1時間40分ぐらいかけて毎日通ってたんですけど、それによってはじめてうちはスラムだったんだって思いましたね。

――なんでその高校を選んだんですか?近くにいくつか別の高校があったかと思いますが。

変な話やっぱり目立ちたがりなんで(笑)。最初は南部で一番良い新城高校を受けようと思ってたんですよ。それで併願なしで受けたんですけど、落ちちゃったんですよね。落ちてしまって行き先がないような状況になりかけて。その後必死に探したら、北部に生田高校の自然科学コースっていうところが唯一定員割れしてて。そこが3年間数学と生物を専門的に勉強するようなところなんですよ。数学嫌いだしサイエンスも嫌いだったのにそこに進学して3年間頑張りました。

でもそこでロジックで〔物事を〕考えるということはすごく学びになりました。なおかつ川崎サウスサイドで不良の子たちとばっかり付き合ってたのに比べて、高校にいるやつは昼休みにポケモン交換するとか。それがカルチャーショックで(笑)。でもそれが面白くて、こんなに違うんだってびっくりして。そこでの3年間で俺も勉強すれば大学行けるかもしれないってのは思い始めました。それまでは俺、言われてないけど町工場継ぐのかなみたいな考えがどこかにあって。

――中央大学ではどこの学部に所属されていたんですか?

経済学部国際経済学科です。

――理系の学部ではないんですね。中央大学を選んだ理由は?

シンプルに学費が安かったからです。さっき話した高校の自然科学コースで僕は2期生なんですけど、唯一の文系受験なんですよね。3年間数学と生物やったけど、好きになれませんでした(笑)。

――中央大って学費安かったんですね。

そうですね。大学3年ぐらいからは返さなくてもいい奨学金に採用されて、学費も全部自分で払ってました。

――給付型の奨学金って結構競争率高いですよね。どういう奨学金だったんですか?

なんか在学生で頑張ってるやつとか活躍してるやつ対象、みたいな感じでしたね。当時すでにKPとしてデビューしてて、NHKのハングル講座とかにも出てたんで受かるでしょと。勉強がすごいできたわけじゃないんですけど、中央大学で活躍してますよってことで面接を受けて採用されました。

――学内でかなり有名人だったんじゃないでしょうか?

いやぁ、全然有名人ってほどではなかったんですけど(笑)。当時2002年とかで、韓流ブームも来てたんで。

――FUNIさん今はすごく物腰柔らかい感じですけど、当時結構尖ってませんでしたか?実は昔一度見たことあるんですよ、KP時代のパフォーマンス。ちょっと怖かった印象があって…(笑)。

たしかにちょっと怖かったっすね、当時は(笑)。やっぱり尖ってたんでしょうね。ラップってフラストレーションとかが原動力になるんですけど、当時フラストレーションだったのが、韓流ブームが来てから、「韓国語話せる?」とかそういうのが増えて。まだ俺はある程度話せるからいいけど、それでも〔母語話者みたいには〕話せないんで。だから話せないって答えた時に「なんで話せないの?」みたいな、そういうのあるじゃないですか。でも一方で、なんかそれを自分自身がポップアイコンになって推し進めてるなって。

つまり「コリアンパワー、コリアンプライド(Korean Power, Korean Pride)」名乗って、それでNHKハングル講座出てる。ラップでハングル教えてる。「あ、じゃあ在日って韓国語話せるんだ」って思わせちゃってないかなとか。KPとして活動してたときは、自分が背負いすぎてしまったのかもしれないですね。「〔自分が〕在日代表ですってことじゃない」ってのは言えなかったというか。

それでも感覚的には、いやいや、ヨン様〔=ペ・ヨンジュン〕とか全然俺らと違うから、そもそもあいつら土足で入ってきてると思ってるし、みたいな(笑)。なんでそんなふうに思うのかっていうと、在日であるからということですごく負担があったからなんですよ。とにかく在日同士でもドロドロとしたものがあって。例えば周りには日本に帰化した親戚もいて、それによって〔在日の親戚を〕結婚式に呼ばないとか。

――結婚式に呼ばないというのは、帰化した人にとっては本名名乗ってる在日の親戚を呼んだら素性がバレちゃうから?

そういうことです。ところが2002年に韓流ブームが来た時に、「実は私も在日で」みたいな。「いやお前、こっちは最初からずっと在日だよ」みたいな気持ちになっちゃうんですよ。〔帰化をすることで〕同化政策のほうを選んどいて、カルチャーの波が来て〔在日だと〕言ってもいいかなって雰囲気来たらカミングアウトして。なんだよそれ、みたいな。まあそういったドロドロしたものもありますよね、在日同士で。

そういう〔在日として生きていくことの〕ダルさがあるのも知らんふりしてヨン様とかどうのこうの言ってんじゃねぇよって思ってました。まあもちろんこんなこと言わないんですけどね(笑)。とにかく当時は「コリアにおける多様性」ってものをまだまだ理解してない時期でした。属性とかよりも、俺が大事なんだと。そういうことで尖ってたんだと思います。

――それまでずっと出自を隠してたのが、自分は在日です、韓国人ですってカミングアウトしやすくなった。それも韓流ブームの影響の1つだったのかもしれませんね。

そうなんすよ。だからそういう意味で言うと、もし自分がこれまで〔在日であることを〕隠していた側の立場だったらどんだけありがたいかって思ってただろうし。ただ僕の極私的な観点だとふざけんなよ、みたいな気持ちになったりしちゃうんですけど。でも反面ではやっぱり嬉しいですし。なんとも複雑なんですよね、全否定できないし。

だけど僕が社会を抜けて俯瞰して見ることができるようになってから、徐々にそれが構造的なものだったんだと気づくことができました。川崎で生まれて川崎で死ぬやつっていっぱいいて、かつて自分もそのワンオブゼムだったわけじゃないですか。でもいろんな経験を経て、これが構造的なものだと気づいた時に、やっぱりこれをお金になる、ならないとかじゃなくて、自分なりのアプローチで表現していかなきゃいけないなと。

――在日を取り巻く状況には構造的な要因があって、そこを誰かが言っていかないとみんな理解できないということですよね。

そうですね。でも自己肯定感超低いんで、ほんとによかったのかな、本当にこんな曲作って良かったのかなって、思うわけですよね。でも結構喜ばれたりして、あぁ良かったんだみたいな気持ちになれて。

稼ぐことに夢中になったIT社長時代

――27歳から32歳までITの仕事をされていたんですよね?その前には、検索エンジンで上位に来るようにするにはどうしたらいいか、みたいなことをやるアルバイトも経験されたとか。なんで最初そこでバイトしようと思ったんですか?

時給よかったらです。「渋谷 時給高い」とかで検索して探したんでしょうね(笑)。当時の自分は時給安いところで働く理由がまったくわかんなくて、高い時給があるのになんで安いところで働くの?っていう感覚。そのぐらいめっちゃハングリーっていうか、カネカネって思ってましたね。

――まあでも、その頃はラップもまだ続けてるし、時給が高ければその分ラップの活動が続けられるわけですしね。

それはそうですね。

――ほかの記事を拝見しましたが、アルバイトをやる過程で成果を上げれば上げるほどお金が入ってくるということに魅力を感じるようになっていったそうですね。その後、当時の仲間と3人でIT企業を立ち上げ、その会社が62人の社員とアルバイトを抱えるまでに成長していったと。FUNIさんはここの社長だったんですか?

ざっくり言うと俺が営業で金稼いで、1人はなにかトラブルがあった時の社長役をやって、もう1人が技術っていう3本柱でやってたんですよ。途中からそこの社長になったんですけど。基本は俺が営業やりながらめっちゃ売ってました。

――働いていた時、ラップは続けていましたか?

バイトをやってたときはラップ続けてたんですけど、起業したときに今は金稼ぐほうが優先だなと。1回は稼ぎたいなって思ったというか、本音はそれですね。

――その時の忙しさっていうのはどんな感じだったんですか?

いやぁ本当に、24時間ほとんど働いてましたね。いくら金あっても自分の人生生きることはできないなって感じでした。

僕って強制送還をされる人たちを自分の目で見てきて、言えばその手触りがあるわけじゃないですか?それってやっぱり悲しいわけですよね。だから自分が社長になって、就労ビザ出してそういう人たちを雇えば、そんな悲しい目に遭うこともないじゃんって。そういった志もあったりしたんですよ。

でもどんどん働きながら拝金主義みたいになってくると、〔ものの考え方が〕スピードだったり近道を選んだり、合理的になっていくんですよ。となると、「外国人邪魔じゃん」っていう考えになってしまう。ちょうどビジネスをはじめた27歳から通称名を名乗り始めていて、その頃は日本人よりも日本人らしくしようと思ってた時期でもありました。自分の中ではコリア的な属性がデメリットだと思ってたからですよね。

――従業員に外国籍の方は多かったんですか?

いました。たしかにかれらに対しては優しいまなざしがあったかもしれないです。でもその時は金がすべてで、金になれば何でもOK。そのくらい本気でやってたんですよね。ラップも本気でやってた。ラップで世界変えるって本気で思ってたんで。でもKPとしてある程度一定の役割を果たした気もするし、これじゃ食えねぇと。本気でやって食えないなら、本気でやって食えるものをやらないとって考えた時に、稼がないとって。

しかもちょうど当時はコンプレックスもあった。大学時代にデビューして周りから「すごいね」とかもてはやされていたのに、気がついたら一緒に遊んでた同期が銀行マンとか商社マンとか大手に就職して、どんどん偉くなって。「あ、まだラップやってんだ」なんて言われたりすると、「お前らの退職金1年で稼いでやるよ」みたいな(笑)。気が張ってた時期だったんですよ。

1度働いてから分かったこともすごくあって、もうこれは幸せにならないなと。それで放浪に向かっていきます。

そして放浪の旅へ

――放浪していた頃はいろんなところに行ってましたよね?最初はニューヨークからスタートして…。

やっぱりニューヨークはラッパーとしての憧れがあったんですよ。ただラッパーもう1回やってやるぞって気持ちにはなれなかった。だって自分が愛したものを本気でやって、それでそこまでだったんだから、簡単にもう1回やってやろうってのはちょっと違うじゃないですか。かといって前みたいにバリバリ働くっていうのも嫌で。まあ蓄えがあったから7年間も放浪できたわけなんですけど。なんか楽しく生きれないかなぁみたいな、そのくらいの気持ちで放浪の旅に出ました。

――ニューヨークに行き、樺太に行き、あとパレスチナとかにも行ったんですよね?

そうですね、あとはその過程でベルリンも行きましたし。

――放浪を経て、今の活動につながっていくのは大体何年ぐらいですか?

コロナが始まったぐらいだと思いますね。2020年とか。2019年に結婚して、2020年に彼女が東京に転勤したことをきっかけに一緒に生活できるようになったんですよ。そこで放浪が終わりました。

――ラップを再び始めたのはいつ頃ぐらいでしたか?

これめちゃめちゃ難しくて。放浪してるときにもしてたと言えばしてたし、してなかったと言えばしてなかったんですよね(笑)。でも前と同じようにやるってことは考えてなかった。どういうことかと言うと、自分がプレーヤーとして、曲を歌ってそれで食うってことはできないなと。みんなが本を買わなくなってるのと同じように、音楽業界自体がCD買わないから。だからプレイしていくのは無理だと。

じゃあどうやったらいいかなと考えたときに、ラップのワークショップだとネタ切れとかないんじゃないかって思ったんですよ。俺がこの時こう思った、みたいな曲を作ってやっていくのって、歳を取るとだんだん感性もなくなっていく中で続けるのもしんどくなるんですよ。でも俺はラップによって救われた経験がたしかにある。じゃあそれは俺ひとりで何回も歌うよりもいっぱいの人に1回でも歌って表現してもらったほうが続くなっていうのをなんとなく思いはじめて。

それでラップのワークショップを売りに出して行こうって思うようになりました。それを意識しはじめたのは2016年ぐらいからだったんですけど、ラップのワークショップ自体は2010年ぐらいからやってました。ただその時はなんとなくぐらいだったんですけど。

――自分を表現するためのラップから、ほかの人を元気づけたり、言葉にしてこなかった思いを引き出したりするものとしてラップの可能性を再考しはじめたと。

グローバル化と言われるようになって、みんながどこにでも行けるようになった世の中で、でもその中でどこ行っても生きづらさだとかいった共通のものがあるのだとしたら、それにどうやって関わっていけるのかなと。放浪中ベルリンとかハンブルグでラップワークショップをやりながら、そういう漠然とした考えが確信に変わったんですよ。俺はワールドクラスだ、と。日本に住んでる人の生きづらさとかじゃなくて、世界が構造的に生きづらさを抱えていて、それに傾聴したり受け止めるよっていうビジネスは無いだろうと。そういうのを世界で感じた瞬間です。

――なるほど。国は違えどそこに共通するものがあって、FUNIさんの経験や手法がそこで通用したという感覚があったということですね。

「セラピーとしてのラップ」の可能性

――現在は「ラッパー・詩人」という肩書きで活動されてますよね?

ラッパー・詩人、そうですね。なんかもう1個ぐらい作ろうと思ってるんですけど。安田菜津紀さんとかフォトジャーナリストって言ってますよね。あんな感じでなんかないかなぁと思ってます(笑)。

ちょうど最近は「セラピスト」みたいな、そこの需要非常にある気がしていて。「ヒップホップセラピー」っていうのがアメリカでも10年ぐらいは続いているんですけど、日本におけるヒップホップセラピーの実践ってなくて、それを明言はしてないけどこれまで自分がやってた気がしてるんですよね。

――FUNIさんがこれまで受けた差別体験について教えてください。

例えば職務質問された時に「あ、日本生まれの韓国人なんだ。韓国語しゃべってよ」みたいな、そういうやり取りでムカついたことはありますし、なんなら「韓国帰れよ」って言われたこともあるし。それが公務員に言われてるんで、ビックリですよね。いまだにそこはみんな理解してない。公共機関に行って手続きするときにも、歴史的背景分かっていない人はそういう言葉遣いなるよなぁって感じるときはしばしばあります。

――そうした状況に置かれたとき、どうやって解決してきましたか?

解決というか、僕の場合はそういう時に曲を作るんですよね。やっぱり気持ちが沈んでしまうんで。そうなったときに暴力的になってしまう在日も多かった気がするんですよね。酒とか暴力でしか表現できなかったから。だとしたら俺は曲で表現しよう、みたいな感じです。

――文字通りセラピーですね。

そうなんですよ。アンガーマネジメントって言えるかもしんないですね。結局のところ、感情に寄り添ってくれる言葉が必要なんですよね。SNSはポジティブすぎるような表現で溢れてて、パブリックな表現とか報告書とかにも限界がある。例えば法律の一文読んで安心したとか、癒されたってやついるの?って話なんです。それよりも手触りのある言葉が必要で、キラキラのポジティブな言葉だけだったら、ちょっと今の感情に寄り添ってほしくないとか、お前らじゃわかんないよみたいな、そういう気持ちになるはずなんですよ。

「ほんとこういうことで苦労した」「こういう時まじ辛かった」みたいな言葉に対して、弱音吐いたらダメとか、言っちゃいけないことのようにみんな思ってますけど、そういった言葉こそが誰かにとっての癒しになる時ってあるわけですよね。自分がどん底にいる時、なぜこんなにもひどく気持ちが落ち込んでいるんだろうというような時に、曲を聞くことで、自分のことを直接言ってくれてるわけじゃないけど、同じことを経験してるっぽいぞ、と。そういう感覚は確かにあって。

やっぱり人なんですよね、人の話。その人の話がやっぱりほかの人を癒す可能性があるということですね。

――怒りとかどん底にいる状態とか、そういうのを音楽で表現することがむしろほかの人にとってのセラピーになるわけですね。それは在日だけとか、日本にいる人だけじゃなくて、何かそういうものを超えた普遍性がある。いろんな人がFUNIさんの表現を受信してるんでしょうね。

そうなんです。小さい頃から泣き言を言うなみたいな、そういう育てられ方をして悔しかったと思うんですよね。だからこそみんなもっと言っていいよって。それが自分の中だけだと泣き言になっちゃうかもしれないけど、人に伝えることで誰かにとっての勇気になったり希望になる可能性はあるってことですね。それでラップやってるんだと思います。

――ここ最近大学の講義やシンポジウムでもゲストとして呼ばれるなど、アカデミアとの交流の機会が増えています。

自分の狙い通りだったっていうか。アカデミアに食い込んでいくことが自分の持続可能な方法だったので。音楽業界で俺の曲聴きたい人いないんで(笑)。だけどアカデミアだったら聴きたい人いるだろうなと。だから僕にとっては音楽業界では無視されたけど、アカデミアではすごく貴重な資料になってるということは、自分自身が生きる道を見つけられたなと思ってます。

自分は良い意味でアマチュアなのでラッパーとしてやっていけてるっていうか、簡単に表現できるっていうか。これが研究職とか専門職になっちゃうと専門用語とか抽象的な概念が多すぎてしゃべれなくなっちゃいそうですよね。だから僕が思ってたのは、アカデミアの人たちは研究が専門だけど、伝えることの専門家ではないんですよ。じゃあ伝えることの専門家って誰なのかっていったらメディアになっちゃうんですけど、メディアもつまんないんですよね(笑)。つまんないっていうか、伝える際にどうしても箇条書きとか、テキストみたいになってしまう。

僕の場合は人の経験を通して伝える。人の経験っていうのは自分もそうだし、あの人はこうだったとか。要するに手触り感があるんですよ。人の経験を通して伝えることで、人と出会えた感覚になっていくから記号になりにくいっていうか。アカデミアとかマスコミだとどうしても記号になりやすい。それを生きた人間の肉声とか肌感覚みたいなものを通して出会っていくということに強みを感じてるんで。アカデミアに担ってもらうところは担ってもらって、もう少し肉薄する部分は僕がやって、お互いに協力し合うっていうことが重要だなと思っています。

《In-Mates》検閲問題を振り返る

――FUNIさんが出演された映像作品《In-Mates》(監督:飯山由貴)が、関東大震災時の朝鮮人虐殺を歴史的事実とすることへの懸念などを理由に、東京都人権部によって上映禁止になるという出来事が昨年ありました。そもそもこの《In-Mates》という映像作品、FUNIさんはどういった経緯で出演することになったのか教えてただけますか?

TwitterのDMで直接来たんですよ。多分こういうのあまりないですよね(笑)。飯山さんは僕の話を『オールドロングステイ』っていう無年金受給者の映像作品を作った時に、京都の九条マダンとかで子どもたちがサイファーやってるの(複数人が輪になって即興でラップをすること)とかを聞いて、そういう表現方法は朝鮮にあったりするんですか?ってある人に聞いた時に、身世打鈴(シンセタリョン。自身の不幸な身の上について話しながら、愚痴をこぼしたり嘆いたりすること)ってのがあって、それだったらラッパーのFUNIさんがおすすめだよって紹介があったみたいなんですよね。いまだに僕を紹介してくれた人が誰かわかんないんですけど、俺ってそういう認識なんだってびっくりしました。

それで飯山さんから《In-Mates》のコンセプトが、戦前に都内にあった精神病院のカルテが残っていて、それによると当時朝鮮人の患者A患者Bが放歌を独房で歌っていたと。それが一体何なのかっていった時に、身世打鈴じゃないかということで、それを再現できる人はFUNIさんだと思うんで是非出ていただけないですか?みたいな依頼がDMで来て、「うわ、何これ。やべぇ依頼来たな」って最初思ったんですよ(笑)。いわゆるシャーマンとかイタコやってくれって話なわけで。

自分的にはラップワークショップっていうのがラップに携われるやり方だなと思っていました。それは他人にさせるってことじゃないですか?でも俺自身が〔誰かの言葉や思いを〕引き受けて、それを表現していくっていう段階にはまだ行けてなかったので、そこの領域を伸ばせるチャンスだなと。これができたら要は役者みたいなもんだからどんなことでもできるぞと。

――この映画が東京都人権部によって上映できなくなったんですよね。

自分的には「そうだよな、上映できないよな」って最初は素直に思ってしまったんですよ。「まあ俺在日だし、あんまり調子に乗っちゃいけなかったか」ってのが初感。だけど飯山さんとか周りの日本の人たちの多くが関わってくれて、これはおかしいって言ってくれて。そこではじめて気づいたんですよね。1人だったらいつも通り受け流していたかもしれませんね。

――記者会見とかもされてましたよね。東京都に対して勇気を持って闘っておられる姿が印象的でした。

そっか、これ闘ってるんですね(笑)。いや、もちろん闘ってるっていう意識を全く持ってないってわけじゃない。けどその意識が明確になったのは子どもが生まれたってことが一番でかいんですよ。っていうのも役所に出生届を出しに行った時に、自分たちが外国人〔注:FUNIさんの配偶者も外国出身〕ということで苦しむこともあったけど、子どもには自分がミックスルーツであるということを名前から分かってほしくて、漢字とカタカナのミックスの名前で申請しようとしたんですよね。そしたら〔親の〕どっちかが日本人だったら大丈夫だけど、どちらも外国人の場合はカタカナのみって言われて。漢字入れたらダメなわけですよ。韓国人か中国人ならオッケーなんですけど。それでえ?ってなって。

それは川崎の市役所だったんですけど、「第1号にしてくださいよ」とか「もう時代変わってますよ」とか言って。そしたらやっと受け入れてくれて。俺は口立つからワーワー言ったら変わったけど、そこでうまく言いくるめられてシュンってなって諦めて帰った人、これまで何人いたんだろうと思ったりして。

――強く言ったら役所が動いたんですね。

そうなんですよ。しつこく言ったら受け入れてくれるって、それはそれでどういうことだよって話で。お前の裁量なのかよっていう(笑)。

いつでも、だれでもカルチャーにアクセスできる基盤づくりを

――日本政府、あるいは行政による在日コリアンへの対応は適切だと思いますか?

全然ダメなんじゃないでしょうか。何がダメって、うーん…。崔江以子(チェ・カンイジャ)さんとかそういった人たちの闘いは、法律を作って、前例を作っていくというもので、ポリティカルなアクションとして非常に重要なんですよ。でも、俺の場合はカルチャー。ポリティカルな問題もまだまだ全然ダメだけど、カルチャーの側からの働きかけもまだまだ議論になってないような状態。気づいたらそういう文化はなくなりつつあって、じゃあどうすんのって言った時に、どうにもできない状況。

たとえばチャンゴとかプッ(いずれも朝鮮半島の民族楽器)やりたいって思う人がいたとして、そこにアクセスするのさえ難しくなってしまってる。それは問題ですよね。まあ在日もどんどん減ってるし、難しいことなんですけど。

――政府や行政がそういった文化継承に積極的に取り組んでいくべきということですか?

せめて消すなよ、と。ネオリベラリズムの名のもとに儲からないからとか、コストがかかるからやめとこうっていう発想は、俺が社長をやってた時と同じ。文化はそういうものじゃない。せめてコストかかるからやれないんだとしても、アクセスできるっていうところまではしておくのが筋でしょと。なかったことにするなんてのはもってのほかだよって思います。本気で興味を持ったやつらが世界を変えていってるから、そうやって本気で興味持ったやつが調べたい、やってみたいと思ったときに、公共なんだったらせめてアクセスできる状態にはしておけよって話。要は蛇口をひねったら水が出るっていうのが公共だとしたら、今の政府とかはそうじゃない〔=水が出ない〕状態ってことですね。

最後に:「今ここ」で悩み、言葉にしていく

――今現在生きづらさを抱えていたり、くすぶっている人に対してどういう言葉をかけたいですか?

まずは自分を語る。自分を語らなければ人とは出会えないんで。出会えなかったら何も起こらない。ラップワークショップやってるのは、自分を語るトレーニングをしてほしいからなんですよね。自分を語ることができれば、それによってだれかの言葉に共感できたり、逆に誰かが自分の言葉に共感してくれたりっていうような出会いが生まれる。それでまた考えるきっかけが生まれていく。今はよかった報告書しか上がってないような世の中。そうではなく「今ここ」において悩んでるんだっていうことを口に出さなきゃ悩めないぞと。対話が始まらないんですよね。だから僕はその対話を出しやすい雰囲気作りをしていってるということですね(笑)。

――みんなのためにやってるんですね。

もちろんみんなのためではあるんですけど、自分のためでもあります。〔過去の自分に〕あの時のお前は間違ってなかったぞっていうことを言いたいんで。「思いっくそ悩んどけ。それがめっちゃ重要だから、間違ってないから」って。

ラップワークショップを通じてみんなが解放されていって、「すごい良かったです」って言ってくれるのを見ると、みんなのためっていうよりは、あの時の俺に「お前すごいことやってるから、今は一生懸命苦しんどけ」みたいに言えるというか(笑)。


インタビュー終了後、大学の講義でFUNIさんのラップワークショップがあり、実際に参加させていただいた。学生たちは90分という短い時間でそれぞれの体験や苦悩、怒りをラップに表現し、そこには驚くばかりの複雑さ、多様性があった。
やってみると意外にも、ゼロから作詞していくことの難しさを痛感させられた。どうやらわたしたちは、想像以上に「自分を語る」ことに不慣れになってしまっているようである。FUNIさんの言うように、SNSやマスメディア、報告書などに無数の言葉があふれかえっている現代にあって、自らの「手触り」で言葉を作り出していくことの重要性をあらためて認識する機会となった。
自分を表現するという行為によってはじめて得られるもの。それを言い表わすならば、「解放」の感覚に近いように思われる。そしてその感覚は、外からだれかに与えられるものではなく、自らの内から紡ぎ出すものである。学校文化に居心地の悪さを感じる高校生。働き詰めの毎日に時折虚しくなったり苦痛になったりしながらも、まだ見ぬ将来のために今やっていることは価値があると自分に言い聞かせている会社員。「日本語上手ですね」「好きな日本の食べ物なんですか」という質問にうんざりする外国人……。いまを生きる無数の「わたし」たちが必要としているのは言葉である。ラップには、自分を語ることで、新たな世界を発見し創造するための力が秘められている。