相互理解

チョウチョウソー氏インタビュー(シュエガンゴの会代表)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

チョウチョウソー氏インタビュー(シュエガンゴの会代表)〈FRONT RUNNERシリーズ〉

東京、高田馬場。ここには、30年近くのミャンマー人コミュニティの歴史がある。「リトルヤンゴン」(ヤンゴンはミャンマーの旧首都)と呼ばれるこのミャンマー人コミュニティは、1980年代に西武新宿線中井駅周辺からはじまり、90年代後半には場所を高田馬場に移しながら、2000年代には急成長をみせた。
コミュニティが拡がる起点となったのは、1988年の民主化運動と国軍の2度にわたるクーデターによる民衆への激しい弾圧であった。政治的苦難によって、多くのミャンマー人が「難民」としての生を強いられ、生活拠点を日本に移すこととなった。
今回お話をうかがったチョウチョウソーさんもまた、ミャンマーの民主化運動に参加し、その後難民として日本にやってきた1人である。1991年に来日し、30年もの年月を日本で過ごしてきたチョウさんは、リトルヤンゴンのコミュニティの歴史をよく知る人物の1人だ。今回は、そんなチョウチョウソーさんに、これまでの歩みと日本での活動、そして変容しつつあるコミュニティに対する思いについて話していただいた。


ミャンマーの原風景

――今日はよろしくおねがいします。チョウさんは何年の何月何日生まれでしょうか?

1963年の5月13日。

――生まれたのはミャンマーですか。

そう。ミャンマーのヤンゴン。

――もうその時からヤンゴンという名前でしたっけ?

そのときはラングーンで、今はヤンゴンに名前が変わった。2006年からネピドーというところに首都が変わって人も移ったけど。

――当時のラングーン、今のヤンゴンのどんな地域に住んでおられたんですか?

ヤンゴン市内の北のほう、そこで生まれて、育ったのは中心街。そこで学校に通って中学校までずっと生活していて。その中心街には中国系とかインド系とかたくさんいて、家の前にはモスクもあった。だから僕は小さい頃から自分と違う人たちと一緒に住んで、一緒に遊んで、そういう環境にいた。

――家の仕事は何をされてたんですか?

両親2人とも宝石の売買をするバイヤーとか、あとブローカーもやったり。そういうことを仕事にしてた。〔経済的に〕豊かとまではいえないけど、それでもなんとかきちんと生活はできてた。

――大学はミャンマーの大学に入ったんですか?

僕はヤンゴン経済大学に行ってた。当時の(ミャンマー)は社会主義なので全ての学校が国立。大学のほとんどはヤンゴンにあって、国内のほかの大きな都市で12、13個しかなかった。今は小さなキャンパスもたくさん増えてきて、大学以外にも専門学校とかも増えてきた。

――チョウさんはビルマ族になるんですか?

えー、ミックス(笑)。

――お父さんかお母さんのどちらかがビルマ族ですか?

お父さんがモン族(注)とビルマ族のミックス。お母さんがビルマ族とシャン(族)。お母さんのお父さんはシャンと中国系のハーフだったかな 。

(注)ミャンマーには、135の民族が存在するといわれている。ビルマ族が人口の約7割を占め、残り約3割の少数民族は大きく、カチン、カヤ-、カレン、チン、モン、シャン、ラカインの7民族に分けられる。

――文字通りミックスですね。

あとお父さんのお母さん、それもハーフだよ。ビルマ族と中東系?だからほんとにミックスなんだよ。何族かって聞かれたら僕はハイブリッド(笑)。

――ハイブリッド、いいですね。

民主化運動を経て、日本へ

――日本に来たのは当時のビルマの民主化運動が理由ですよね。民主化運動に関わったのは何年ぐらいでしたか?

大学1年生から政治のことに興味を持ち始めた。それが1981年とか。自分たちの生活は困ってなかったけど、周りの人たちに色々なことを聞いてたら国の状況がよくないということにだんだん気づくようになって。私たちの社会は変わらなきゃいけない、このままでは無理だっていうことを感じはじめて、政治のほうに向かっていった。それでいつも同級生の仲間たちと会ったら議論する。どうしてこうなってるのか、どうすればいいのかって。

その時は社会主義なので政府が家庭にまで関わってきて管理する。例えば僕らはヤンゴンに住んでいて親戚がいるマンダレーという大きな都市に行ったら、役所に行ってここに滞在しますということを報告しなければならない。もし突然チェックされた時にたまたま報告してなかったら罰金とかそういうのがあったから、やっぱり国内で自由に移動はできなかった。あとほかにも例えばお母さんの家に行っても「息子が来ましたよ」っていう報告を〔役所に〕しなければならない。そういう状況。それが良くないなと、これよりもっと自由があっていいじゃないかと、そういう話もしてた。

1988年にビルマの民主化運動が行なわれて、僕らも参加者としていろんな活動をやった。でも1988年9月18日にクーデターがあって、その後僕らの活動は変わってきた。今までは自分たちが言いたいことを言える。仲間たちの前で色々なことを言えた。クーデター後はみんな秘密になって、運動もアンダーグラウンドなものに変わっていった。僕らが中心でやってたのは情報。正しい情報をみんなに伝える。これからどうするかっていうことを考えている人たちがいい方向に向かうように。

――その頃は大学を出て働いてたんですか?

働いてた。会計士。その当時はほとんどの企業は国営企業なので、公務員だよ。ミャンマーには経済大学3つ4つぐらい、そういう学部がある。そこで卒業したら資格として国に認められる。それで公務員になった。

――公務員で民主化運動をしていたとなると、余計に目をつけられるようになりますね。

そう。88年のクーデター後にその時何やってたか(を軍は)公務員みんなに質問した。僕は本当のこと、自分がやってることをきちんと書いたよ。それで上司とかボスは書いたやつを見て、「本当にこれで大丈夫ですか」って心配して聞いてきた。いや、これは僕は正しいことを書いて、自分がなぜやってるかもそこにちゃんと書いてあるよって言った。そしたら「あなたはクビになる可能性がある」とか言われたけど、それはもういいよって。この仕事をしてるのも自分がちゃんと勉強したことを仕事としてやりたいから。もしクビになってもほかの仕事探せる、そういう自信があるって答えた。みんなびっくりしたよ。後で聞いたら、こういうことを書いたのは僕1人しかいなかった。

――運動を続けながらチョウさんたちへの厳しい弾圧もあったのではないでしょうか?

うん、仲間2人が捕まるということもあった。

――仲間が2人捕まったのを見て、ここは危ないなと思うようになったと。いろんな国に逃げる人はいると思いますけどなんで日本だったんですか?

いや、最初はタイに行った。それが91年。父と2人できちんと相談して決めた。当時海外に行くというのはどこかに出稼ぎに行くとか、海外にある会社で働くっていうような理由をきちんと証明してからパスポートを申請する。だからインビテーションレター(招へいの手紙)とかそういうのをもらってそこに行く。当時海外に行くのは簡単ではないから。パスポートを申請するときはきちんとした理由がないといけなかった。

――じゃあ合法的に出たんですね?

いや、それでね(笑)。僕のインビテーションレターはニュージーランドから。本当はニュージーランドに行くつもりなかったけど。

――そうでもしないと国外に出れないからですね。とりあえず形式上はニュージーランドから招待してもらうという形を取って、申請してパスポートをもらって、実際にはニュージーランドには行けないから中継地のタイに行った。そういうことですかね。それでもタイでビザはすぐ切れちゃいますよね?

〔ビザは〕1ヶ月半、45日。

――45日のビザ。これでタイはすぐ終わりますよね。そこからはどうしましたか?

ビザは2週間延長できる。それで〔その後〕マレーシアとかカンボジアとかあちこち行って、また〔タイに〕戻って。

――なるほど、ぐるぐると回ってたわけですね。

そう。それでその45日間の間、これからどこに行けるかみんなで毎日情報交換してた。バンコクにいるビルマ人たちの間で毎日電話しながら、「あっちの大使館は今どうだ」とか「こっちはどうだ」とか。マレーシア、タイ、シンガポール、マカオ、日本とか、いろんな〔国の〕情報を交換した。そんな中でバンコクの日本大使館が観光ビザ出してるよって聞いて、じゃあ1回〔ビザ申請〕やってみようってことで。それでアプリケーション(申請書)を書いて、トラベラーズチェックも買ってきて。それ〔=トラベラーズチェック〕は自分の名前だから自分のお金で。でも実際はそうじゃない、借りたお金で買った。

――日本に観光に来るために十分お金があることを見せなきゃいけないから?

そうそう。

――トラベラーズチェックの資金はタイにいるミャンマー人たちから借りたんですか?

そこにいた知り合いとか先に逃げた人とか。あとその時は僕の兄もいますので。

――お兄さんもタイに逃げていた?

そう。兄もあっちこっちに行ったり来たり。それで申請してビザもらって日本に来た。

「異国に生きる」

――日本に来たのは何年になりますか?

91年の5月。

――それで91年に日本に観光ビザで来た。日本は当時ビザの期間はどのくらいでしたっけ?

えっとね、90日。

――そうでした。当時は出たんですよね、90日ビザ。でもミャンマーに帰るつもりがないから、その後オーバーステイになりますよね?日本に来た時はどの空港でしたか?

成田。成田で〔入国管理局職員が〕ビザ見てオッケーが出て。「何日間ここで観光するのか」っていうことを聞かれて9日間と〔答えた〕。それが今はもう32年になっちゃったけど(笑)。

――日本に来たときは知り合いがいたんですか?

タイの兄の知り合いが東京にいて、電話番号教えてもらってた。成田空港に着いて電話したら案内してくれた。それでリムジンバス乗って新宿、京王デパートのあたり行って。

――その後どこに住んだんですか?

最初は新大久保。

――向こう〔タイ〕のトラベラーズチェックでお金借りたぐらいだから、日本に来てまずは生活するために働かなきゃいけないわけですよね。どんなお仕事をされてたんですか?

最初は高田馬場駅前で日雇い仕事ありますよね?それをやってた。毎朝6時くらいにワゴンが迎えにくるのを待って。僕らには選べる選択肢がほとんどない。どこに行くかも分からないまま、ワゴンに乗ったり日本人と一緒に電車で行ったり。

――日雇いの仕事は建築系でしょうか?

そう、建築系。

――当時は日本語できないですよね。

あまりできない。1から10までは数えられる(笑)。肉体労働だから穴掘るとか、ゴミ集めとか掃除とか、そこから始めた。

――その当時はバブル崩壊の頃でしたけど、1日いくらぐらいもらってたんですか?

8000円。厳しい仕事、重いもの運んだりとか大変な日は12000円とか。1ヶ月半くらいそういう仕事やってて、仕事ない日もあった。それでいろんな情報で千葉県市川市に電気工事の仕事あるよって聞いて。〔給料は〕1日9000円で、3部屋あるマンションで3人住む。全部それ〔家賃〕は社長が出しますよって。あ、これは良いなって。その社長が本当にありがたかった。図面とか、きちんと教えてくれた。それをちゃんと覚えて4ヶ月後には工事する建物の配線とか配管とか全部図面見て自分でできるようになった。社長が教えてくれたから。その社長はね、サウジ(アラビア)に行って仕事やってたよ。

――なるほど、外国で働いた経験があったから。

それだよ、ポイントは。自分も外国人として働いたことあるから外国人たちの気持ちとかわかってる。

――なんだか今じゃ考えられないですね。オーバーステイの人に社宅を与えて仕事を丁寧に教えて。

それである日、千葉幕張プリンスホテルっていう当時46階の新しく作られたホテル、そこの4階と6階に厨房があって、そこで配線することになって行った。でも僕ら〔=チョウさんと一緒に働いていたミャンマー人〕がビルマ語で話すのを〔発注先の〕担当の人が聞いて、「ビザありますか?」って社長に聞いた。〔社長が〕ないって答えて、ないならちょっと無理だって〔仕事を断られた〕。そういうこともあった。だから大きな現場はちょっと無理だったね。小さな現場だったら大丈夫。5、6階のマンションとかなら問題ないけど。

――日本語はどうやって覚えてこられたんですか?

来日して1週間ぐらいで分かったのは、やっぱり日本語話せないとここで暮らすのは難しい。だから自分で新宿の紀伊國屋〔書店〕で辞書とか本を買って勉強した。自分が時間あるときはそこで好きな本を買って。もともと政治に興味あるから政治の本をたくさん買った(笑)。

――電気工事の仕事はその後いつまで続けられたんですか?

電気工事のその会社は4年間、95年6月までいた。ちょうどその頃仕事が少なくなってきて、社長に「もうごめんなさい」って言って辞めて。その後は池袋にあるイタリア料理のダイニングバー。全然違うよね(笑)。

――どういうきっかけでそのダイニングバーに?

友達が紹介した。僕はキッチン。その店で外国人は僕1人だけで、ほかは日本人。みんな優しかった。そこで6年間、2000年まで働いた。

――イタリア料理も作れるんですね。

最初は全然できない。ちゃんと習うしかないでしょ。そのシェフはちゃんと教えてくれた。今は自信あるよ。

――その頃はオーバーステイが多かった時代ですから、保険とかはなかったですよね?

ないない。

――じゃあ病気になったらお金かかるので大変ですね。難民認定はいつごろでしょうか?

申請したのは97年の2月。98年の10月に認定された。

――そしたらダイニングバーに働いてた、途中から在留資格も持ってたんですね。

そう、途中から。でも97年くらいの時に僕が店長に言って、「今〔民主化のための〕活動が結構増えてるからアルバイトに戻りたい」って。週4回だけ働く、〔1日〕9時間で。あとは〔民主化のための〕運動のことをやるから。びっくりして心配してた、店長も。チョウさん大丈夫かって。

――その時はまだ独身ですか?

いや、結婚してた。

――結婚してるのに仕事減らしちゃって大丈夫でしたか?(笑)

ハハハ(笑)。でも家族も妻も一度もやめてとは言わないよ。みんな応援してくれる。それが一番大きなサポート。

――結婚したのは何年なんですか?

90年の12月。

――あ、じゃあ日本に来る前なんですね。じゃあミャンマーにいた頃ですか。奥さんは何年に来日したんですか?

99年。難民認定されたとき。

――なるほど、難民認定されて呼び寄せができるようになったから。

そう。だからタイから呼んで。

――ヌエヌエチョウさん〔チョウチョウソーさん妻〕もタイにいたんですか。

僕より後にタイに来た。僕も日本で政治活動やってて、彼女がミャンマーにいたら危ないし、出られなくなる可能性があるから。チャンスあるときに、手元にパスポートがあるときに〔妻は〕タイに行った。〔妻がタイに来たのは〕難民申請している間の98年。日本に来たのは99年の1月。

――90年に結婚して約8年くらい離れた状態だったんですね。

――ダイニングバーのお仕事は2000年まで働いて、辞めたのは次の仕事をしようと思ったからですか?

そのお店も売上がだんだん落ちていった。景気が悪くなって。クビとかそういうのじゃなくて、「店が厳しくなってるから理解してくれ」って〔話になり辞めた〕。ほかのアルバイトよりも僕が一番〔勤務が〕長い。最後は送別会もやってくれた。

――店も不況だったんですね。じゃあ次のお仕事は?

ハローワークに行って仕事を探して、それでビジネススクールの授業をビデオテープでダビングする仕事をしてた。授業を全部ビデオで撮って、録画したものを学生が見るためにビデオテープにコピーする。注文があって、これのコピーは50だとかあれは200だとか。だからビデオデッキは250台ぐらいあったよ。その仕事が2000年の6月くらいから始めて7ヶ月くらい働いた。それが夜の仕事だよ。結局その会社も時代が変わってきてビデオテープでダビングするというのをやめるということになって。そこで僕より3年くらい長く働いていた人が言うのは、これは会社が僕らをクビにするという意味になるって。だから会社の弁護士とちゃんと話して有給とか雇用保険とかを計算してもらった。

――2001年の途中からは次の仕事ですよね?何のお仕事を?

雇用保険で〔失業期間を〕つないで、2002年の4月からはNHKの国際放送局。ビルマ語の翻訳とアナウンスをする仕事。そこはずっと今までも働いてる。

――NHKの仕事はなぜ知ったんですか?

NHKがアナウンサーを募集してた。1997年にBBCのラジオジャーナリストのビルマ人たちがやってるところに行ってちゃんと勉強もした。そこがBBCのOBがヨーロッパの大きな財団から助成金もらって、いろんな国回ってビルマ人たちにラジオジャーナリズムを教えてる。僕もそこに行って勉強した。

――併せて高田馬場にあるレストラン「ルビー」のオーナーもしておられるんですよね?

レストランを始めたのは2002年の9月から。レストランを始めようと思ったのは〔それまでの〕仕事が決まった時間に行く、朝8時から夕方までとか。でも自分の活動は国会議員に会ったり外務省に行ったり、そういうロビー活動とか集会が結構あるので休みをとるのが難しい。自分の仕事〔=自営〕ならばスケジュールが簡単に変えることができる。ほかの人とか妻にもお願いできるから、それで店をやるようになった。NHKの仕事も夕方4時、5時から夜8時まで。そんなに長くないんだよ。

――レストランの開業資金は貯めてたんですか?

友達5人とプールした。

――なるほど、5人で出資し合って。いくらぐらいかかったんですか?

750万くらい。

――東京だから家賃もかかりますよね?

30万。

――家賃30万!それは大変ですね。それでも従業員に給料払って家賃払って材料費払って、営業できてるんですね?

だから私の2つの仕事〔=ルビーとNHK〕はどっちかがよくないときはもう片方で支えてる(笑)。

――それと事前に拝見したんですが雑誌を作られてたんですよね?『エラワンジャーナル』というビルマ語の雑誌。

エラワンジャーナルはね、発行されたのは1993年か。最初作った人のはエリダ(名前不詳) で、今アメリカにいる。 彼が編集長としてずっとやってて、僕は編集委員。彼が2004年にアメリカに行って僕に引き継いだ。彼がその時言ったのは、「あんたが続けてやるのなら信用できる。他の人には絶対〔エラワンジャーナルを〕渡せない」って。

――これは全てのミャンマー人というよりも日本にいるミャンマー人のための雑誌なんですよね?

そう、これは在日ミャンマーに向けた雑誌。仕事がどこにあるとか、そういう情報誌。もう1つは95年10月から週刊誌も作ってた。イタリアンレストランに働いてる時に。それは政治のこと。今はもうやめたけどウェブでもやってた。

――何年までやってたんですか?

エラワンは2014年まで。週刊誌は2012年まで。

――「ルビー」の話に戻ると、お客さんはミャンマー人と日本人、どっちが多いですか?

最初はミャンマー人が多かった。1回移転した後日本人のお客さんが増えてきた。

――2020年にコロナが始まってから店はどうでしたか?

2020年の2月からコロナが広がって自分のある金がだんだんなくなってきて、3ヶ月後にはルビーはもう終わり、閉めるって決めてた。それが周りの知り合いが「チョウさん、ルビーは大丈夫ですか?」って心配してくれて。それでみんなが募金活動、クラウドファンディングとかもやってくれて、ほかの日本人の知り合いたちが募金してくれたりだとか。それで続けることになって。あとは東京都から支援金ももらえるようにやってくれたり。それも全部日本人の知り合いがやってくれた。

――おのずとチョウさんの周りにリソースが集まってくるんでしょうね。

だから僕はね、ほかのミャンマー人たちが職場でいろんな問題があって、今日は何があったとかこういう嫌なことあったとか話を聞くけど、僕は〔周りに悪い人が〕1人もいなかった。良い人ばかり。これは本当にラッキーだった。

――今は1週間でどのくらい働かれてますか?

ルビーは週3回。NHKは週4回。でもコロナの時からNHKは局に行く人数を減らしてる。それで〔4回のうち〕2回は自宅でテレワーク。

――ルビーだけで生活するのは厳しいですよね?もう趣味みたいな感じでしょうか(笑)。

そうなっちゃう(笑)。ルビーは人が集まるところになってきたね。みんなの居場所みたいな。

――収入よりも生きがいというか、ミャンマーの民主化とか仲間たちのためにやるっていうのが自分に合ってる感じですか?

収入よりもこういう生き方がいい。ほかの人たちにいろんなサポートをしたいって考えは2人〔=自分も妻も〕とも同じ。人のためにやってあげたいというボランティアの気持ちが強い。

――チョウさんのところに相談に来るミャンマーの人は多いですか?

いっぱいいる。1日に最低電話1本ぐらい(笑)。

――どんな相談が多いですか?

生活に関して自分が知らないこととか、こういうことになったらどうすればいいかとか、職場の問題とかね。あと行政のこととか、また難民申請中の人たちからも相談受ける。ほかには夫婦喧嘩でこっちにくる人も(笑)。

――昔は難民申請する人が多かったですけど、ビザが色々増えてきて今は留学生とか技能実習生も増えましたよね?

そう。技能実習生の相談も多い。

――かれらの間ではチョウさんがボランティアで相談に乗ってるって話があっという間に広がりますよね?

そうそう、口コミで(笑)。たまにね、職場でケガしたとか、亡くなったっていうケースもありますよね。それでそういうことについてどうすればいいかっていう相談とか。コミュニティが長い間で大きくなって、歳とった人たちがいろんな理由で亡くなるから。

――ビルマ族の人は仏教徒が多いかと思いますけど、ビルマの住職を呼ぶことも多いですか?

うん、お坊さんを呼んでお経とかして、それは必ずやる。親戚がいない人もいるので、その場合は僕らが全部やる。死亡届出したりとか葬儀とか。誰かから連絡があってお願いされたら必ず仲間たちと一緒にやる。

――チョウさんは日本の生活も長いですが、もともとミャンマーの人たちは、いつかはミャンマーに帰ろうという考えを持っていたと思うんですよね。周りではミャンマーの状況が良くなったら帰ろうという考えを持ってる人がまだ多いですか?

まだ多い。〔ミャンマーが〕もっと自由な国になったら帰ろうっていう考え。僕らも2016年に25年ぶりに一時帰国した。そこから毎年最低2回ぐらいは行ったり来たりしてる。なぜそういうことをするかというと、向こうに戻って生活しようという、そういうことも〔妻と〕2人で考えているので、実際に現場に行って〔ミャンマーの現状を〕確認してる。帰ったらどこに住むか、何の仕事をするか、そういうことも考えなきゃいけない。それで少しずつ最近は仲間たちと情報交換したり、自分の目で確かめに行ったりしてる。今はまだ無理、クーデターがあったからね。

――一時帰国をする人は増えているんですね?昔の政治犯でも帰ったらすぐに捕まったり、ということはなくなったんですね。

そう。そういうのはなくなった。今はクーデターがあって内戦でだんだん治安が悪くなってきた。またそれで仕事の状況も厳しくなってきたので、そういう影響で1回ミャンマーに帰ったけど再度日本に戻ってきてる人もいる。それともう1つは、お父さんお母さんがここ〔=日本〕で働いて、子どもたちは向こう〔=ミャンマー〕にいてお金を送って教育を受けさせる。その中から子どもも日本に来る、そういうケースも少しずつ増えてきた。

――2021年のクーデター以降、ちょっと今のミャンマーの状況は厳しいなということで再び日本に暮らしの拠点を移す人が増えてるんですね。

そう。学生も増えたし。

ミャンマー人コミュニティの未来、多文化共生に向けて

――ここからはチョウさんがやってるコミュニティについてお伺いします。「シュエガンゴの会」という、子どもたちへのビルマ語母語教室を高田馬場でやられてるんですか?

店のすぐ近く〔のアパートを借りて教室にしている〕。週に1回、土曜日にやってる。これは基本的には妻〔=ヌエヌエチョウさん〕の担当。元々ミャンマーで教師ですから。

――日本生まれの子どもが増える中で、今の子たちは親の言葉がだんだん分からなくなってきますよね。

やっぱりネイティブ〔=言語〕はここ〔=日本〕だからね。子どもたちは日本語には困らないけど母国語は難しい。ちょっとでも話せるように、理解できるようにそこまでは頑張ってやってる。2014年から始まって、今は13人が勉強してる。

――この場所を借りるのも結構お金がかかると思いますが、これは役所から支援無いんですか?

ない、全然。会費と募金だけで。前はボランティアで会費取らなかったけど、継続するために2000円ほど貰うようになって。

――それと日本語教室Villa Education Center(VEC)っていうのは…。

それは日本語のクラスで、ここ〔=シュエガンゴの会〕とは別。まあ僕が副会長なんだけど。最初2014年に子どもたちのためにビルマ語の母国語教室〔=シュエガンゴの会〕をやろうと思って、部屋を借りて始めた。でも日本に住んでるミャンマー人の大人、働いてる人多いんだけど全然日本語読めない、話せない人多いので、その人たちにも日本語を教えたほうがいいと考えて作ったのがVilla Education Center。日本語を教えるのは日本人の先生がいいと思って、知り合いに先生を紹介してもらった。

――同じ教室を使ってるんですね。

そう、シュエガンゴの会が土曜日でVECが日曜日。

――在日ミャンマー人コミュニティのキーパーソンですね。これはミャンマーに帰ったら困りますね(笑)。

――行政について伺いたいんですが、高田馬場だったら豊島区ですね。豊島区あるいは東京都も含めて、行政のミャンマー人への対応は適切だと思いますか?

行政の対応、これはみんな良い良いっていう。それがミャンマーの場合はゼロだから!(笑)

――ミャンマーと比べたらですか(笑)。

そう。こういうふうにミャンマーもなって欲しい。

――チョウさんと行政のつながり、例えば行政にこういうことをしてほしいって話を持ちかけたり、逆に行政の側が協力してくださいって声がかかったりするような関係はありますか?

そういうのはまだない。でも豊島区の福祉事務所の人がたまに自転車でまわってきてくれる。そこでヌエさん〔=チョウさんの妻〕に子どもたちにどういうことを教えているかとか、経験について話してくれませんかって頼まれたりとか、そういうこともあるね。

――福祉事務所のケースワーカーの人が入ってくるということだと、経済的に難しくなってる人が多いとかそういうことですかね?

たぶんね、外国人を中心にまわってる人がいる。

――多文化共生に関することを主に担当している区の福祉事務所があるんですね。そういう担当があるっていうのは区内に外国人が多いからですかね。チョウさんとかヌエさん〔=ヌエヌエチョウさん〕みたいなコミュニティのキーパーソンに直接意見を聞きに来るという、それはちゃんとしてますね。

向こうから来るというのは3、4年前はほとんどゼロだった。最近増えてきてだんだん良くなってきた。

――日本人との関係を長く続けていくために気をつけていることはありますか?

僕らと考え方が少し違う。日本人がサポートしたいから色々考えて計画を作ってくれる。その時の考え方が僕ら少し違うんだよね。日本が僕ら外国人と違うのは教育のバックグラウンド。それによって計画作る時考え方とか見方がちょっと違う。日本側からみたら基準が結構高いから何をやってもちゃんと作って。僕らの場合はそこまではなかったので。日本は目標は良いけど実際に行動する時に、外国人とかかわるケースでは目標まで上手くいかないことがたくさんある。外国人たちのために活動やるときには、外国人たちの考え方、やりたいこと、やり方をちゃんと理解して欲しい。そうならば自分たちがやってあげたいこととちゃんと合わせれる。あれと同じ、パナマ運河。運河の水位を調整する。

――わかりやすい例えです。どこが運河として誰が水位を調整するかっていうことに大きな問題がありますよね。

――今チョウさんの周りで、母語教える次の世代の人とか、ルビーみたいなみんなが集まる居場所を作る人とか、その後継者としてバトンを渡せるような人はいらっしゃいますか?

いや、それは難しい。自分の利益を考えてないような人、なかなかいない(笑)。もう1つはそういうボランティアに興味のある人もあまりいない。でも僕と同じことをやる必要はない。時代が違うから、それぞれの考え方でなんとかできるかなと〔思う〕。日本に最初に来た頃には何もない。日本語も話せない、知り合いもいない。ゼロから今までずっとやってきた。今はミャンマー人のコミュニティが大きくなって、知り合いの日本人、ミャンマーのこと興味ある日本人とかも増えていって、個人でもサポートしてくれたり応援してくれたり、仲良くなって世話になってたりする人たくさんいる。僕らはゼロから作ってきて、最近来た人たちはそのコミュニティが〔既に〕できている中に入ってきた。だからこういうコミュニティの歴史があるんだよってことを知ってもらわなきゃ。それが僕らの使命。90年代初めに日本に来て、こういうことを考えて今のコミュニティを作ってきたんだってことを記録として伝えなきゃいけない。それを最近来た人たちが読んで、自分たちのやり方でまた新しいものを作ることができるように。〔これまでやってきたことと〕同じことを続けてって一言も言ったことないよ。

――日本に長く暮らしてきたチョウさんがみて、日本のこういう所は変えた方が良いなとか、こういう制度を作った方が良いなとか、もし考えがあればお聞かせください。

最近は留学生が多くなってきて、トラブルが結構増えてきた。僕が見るとそれは当たり前、人が増えると問題も増える。それでこの社会に住んでいるから、僕らは外国人として自分たちが最低限やらなきゃいけないこと、言葉のこと、日本の社会とか文化のことを理解しなきゃいけない。でもそれと同時に、日本は人手が足りなくて外国人の労働力がこの国に必要だと考えてるのなら、外国人がここできちんと住んで、きちんと働くことができるような環境を作らなきゃいけない。これから日本が自分の国を守るためには日本人の力だけじゃ足りない。僕ら外国人の力を借りなきゃいけない。この国に一緒に住んで、一緒に働く外国人に対して日本が変わらなきゃいけないと思います。政策作る人たち、自治体でもいいし、それがきちんとやらなくちゃいけない。だから「共に暮らす」とか「共に働く」とか、そういう考えがまだない。「何人」とか〔で区別すること〕じゃなくて「日本に住んでる人たち」として一緒に取り組んでいくことが一番大事だと思います。

――今の在日ミャンマー人に必要だと思う政策についてお考えがありますか?

高齢者が増えてきたのでその人たちのことをどうするか。特別これをやってくださいというようなことは言わないけど、僕らがちゃんと理解して参加して議論できるやり方で政策を作ってほしい。ミャンマー人たち、ほかの外国人のためにということを納得できるように実際に行政から声をかけてくれたらものすごく嬉しいし、僕らもできるだけ協力したい。

――今後多文化共生社会に向けて、何か意見があれば。

最近「多文化共生」という言葉が日本の社会で結構話題になってる。「多文化共生のために私たちはこういうことをやってる」とかよく言ってるけど、みんな一緒にこの社会を作っていく、僕はそれが大事だと思います。だからできるだけ外国人たちの気持ちとか考え方とかバックグラウンドとか、それをちゃんと聞いて議論して、そこから政策とかプログラムとかプロジェクトとかを作っていくのがいいと思います。それが一方的じゃない本当の多文化共生になる。


取材を終えて数ヶ月が経ったころ、たまたま東京に行くことがあり、ランチに友人と「ルビー」を訪れた。初めて食べるビルマ料理に舌鼓を打ちながら、友人と店内のようすをぼんやりと眺めていた。
チョウチョウソーさんは若いミャンマー人青年とテーブルに向かい合って話していた。雰囲気しかわからないが、おそらく生活相談だろう。1日に相談の電話は少なくとも1本あると話してくれたように、その日もチョウさんは誰かの相談に乗っていた。しばらくして、子連れのミャンマー人のお客さんが店に来た。彼女もチョウさんご夫婦と知り合いのようだった。ヌエヌエチョウさんと少し談笑したのち、子どもを置いて店から出て行ってしまった。その後、子どもは店で昼食を済ませ、ヌエさんと一緒に外に出て行った。しばらく何が起こったのか理解できなかったが、親が働きに行き、ヌエさんが子どもの送り迎えを代わりにしていたのかもしれない。ほかにも、店に訪れる人びとはおおよそ顔見知りの関係のようだった。後から店に入って来た人が、先に来ていた別のグループの人に声をかけたり、相席したりする光景も見られた。
店の中で起こるいろんなことが私たちの目には新鮮に映った。そのようすを見ながら、友人が「自分たちにはこういうコミュニティがないよなぁ」とつぶやく。友人も私と同じことを考えていたようだった。利益第一や自己責任といった、経済的自立を前提とした個人主義的価値観にどっぷり浸かった現代社会に生きる私たちは、確かに物質的には豊かなのかもしれない。しかし、人と人とのつながりを考えた時、「ひょっとすると私たちには痩せこけた社会関係しかないのではないか」とふと思ってしまう人も少なくなかろう。チョウチョウソーさんらミャンマー人コミュニティの豊かな実践は、殺伐とした社会に生きる私たちの希薄な関係性という「貧しさ」を突きつけられているような気がしてならない。