相互理解

「世の中のために生きる第二の人生、その喜びは無限である」

「世の中のために生きる第二の人生、その喜びは無限である」

私は、在日華人です。妻が残留孤児で、22年前に家族で来日し、現在も日本に住んでいます。私は中国の河南の安陽の近くで生まれました。私の生まれた故郷は中国文化の発祥地で、殷の遺跡、甲骨文などは国内外でも有名な文化遺跡の名所として知られています。私の両親は学校の先生で、家庭の濃厚な文化的環境の中で、私は幼い時から音楽、美術などに深い興味をもっていました。

小さい頃、筆で字が上手に書けず、硬い竹の板でよく手を叩かれました。小学校の頃には宿題をする時も筆を使い、三年生からは「大楷」(中国書道の中の一つの字体)の書き方を練習しました。書道の基礎はその頃に出来たと思います。

青壮年時代には、社会と家庭の事情でいろいろな困難と試練に会い、念願の芸術系の学校にも進めなかったです。その後工場の労働組合で仕事をしましたので、筆で標題を書いたりチョークで黒板にニュースを書いたりする機会が増え、もう一度筆を使う機会に恵まれました。また靴の工場で靴の設計の仕事をしましたので、そこで切り絵の基本となる小刀の使い方と切り方を学び、腕を磨いてきたと思います。

日本に来て四か月後、私は、靴の工場で働くことになりました。日本語が分からなかったため、体力的な仕事にしか就けなかったです。仕事はきつかったのですが、誰かに頼らず自立できたという意味で、気持ち的にはとても楽でした。しかし、好奇心旺盛な私はこのような単純労働に満足していられませんでした。私は、工場で要らなくなった紙をゴミとして処分しているのを知り、工場長と相談し、その処分する紙をもらい、皆さんがお茶を飲んだりお話をして休憩したりしている午前と午後の時間に、私は一人で隅っこで静かに筆の練習をしました。休みの日には家で新聞紙を使って筆の練習をしました。このような練習は十年続きました。同時に私は東京書道院の通信教育を受講し、一年後には合格証書をもらいました。長い時間かかりましたが、私の書いた字はついに同僚たちにも認めてもらえるようになりました。工場に勤めていた時には、社長の家の仏前に飾る仏像の絵、工場の事務所に飾っている掛け軸の「商売繁盛」という字などを書いてあげました。

2006 年に私は健康等の理由で 66 歳をもって工場を退職しました。中国と日本で何十年間も多忙な毎日を過ごしてきた私にとって、家ですることのない日々を過ごすことにはなかなか慣れなかったです。ちょうどその時友人から兵庫県帰国者支援の会を紹介してもらったので、その交流活動に少しずつ足を運ぶようになりました。その後交流活動はますますその幅が広くなり、活動を通して知り合いもたくさん増えました。私の趣味もだんだん増え、何十年も忘れていた音楽の趣味も復活しました。中国の二胡、ハーモニカは私が青少年時代に好きだった楽器で、それをもって演奏したり表現したりするととても楽しく喜びを感じます。

また切り絵の話に戻りますが、ある日神戸南京町で買い物をして歩いていたらあるお店の買い物袋に可愛い女の子の絵が印字され、それがとてもきれいに映っているのを偶然見かけました。その瞬間私はその絵を切り絵にして紙に貼ったらもっと楽しいのではないかと思いました。切り絵にして紙に貼ってみたら、想像を超えるくらいその美しさは増しました。

その後、私は自分独自の書道の理論と腕に基づいて福、寿、蝶々などの絵を描きました。

また十二支、人物例えば孔子、関羽、紅楼夢(中国の古代の名作)の十二の女性たち、慈悲の女神、「嫦娥奔月」(注:中国古代の物語)の中の人物を表現して、その表現の幅はますます広くなりました。

 

 

中国への里帰りの際にも書道展示会などに足を運び、書道界、切り絵界の有名な人の作品に触れてきました。中国の太原というところを旅していた時、知人の紹介で中国民間芸術家の辛先生の家に訪問する機会に恵まれました。その時、長さ約6メートルにもなる「清明上河図」の辛先生の作品も見せていただき、切り絵に関して色々と意見を交わすことができました。辛先生の切り絵の芸術は祖先から代々受け継がれたものでした。

老後になって偶然の発想から、また私の何十年間の靴工場で鍛えられた小刀の使い方と腕で私は自然と中国の古典名作、神話伝説の人物また「守株待兎」、「濫竽充数」(注:中国の成語故事)等の故事成語を描くようになりました。毎年お正月になると、私は自分の作品をハガキにして近隣の方たち、日本語教室の友達、先生たちに送ったりします。これまで私の作品は、帰国者の内部刊行物、有隣通信、外大通信などに掲載されました。「中文導報」という新聞は、日本全国の華人たちに贈る新年の挨拶に、かつて 2 回も私の「星」を題材とした作品を使いました。新聞社から電話でお礼を頂いた時はとても嬉しかったです。また交流の一環として私は 2 回も小学校に招かれ、切り絵について話をし、その場で切り絵の切り方を披露しました。日中友好協会の主催と協力の元で、2009 年から 2013 年までの間、加古川などで書道と切り絵の個人展を 4 回も行いました。一昨年と去年には居住地域の老人会の推薦で姫路市と地域の高齢者作品展に出展することができました。その時の作品は慈悲の女神、「嫦娥奔月」、三国志の中の関羽でした。2013 年には、中国帰国者定住促進センターから初めて中国帰国者書道展審査委員に選ばれ、私の作品「百彩蝶及蝶図」の絵は中国と日本のお客様から賞賛されました。去年また私の書道作品「清風佛両袖 懐明月満一」を中国帰国者書道展に出展することができました。

展示会でお客様たちが私の作品を鑑賞するのを見て、また学校で子どもたちが私の切り絵作品作りに夢中になっているのをみて、また神戸、大阪の日本語教室で切り絵を披露する際に人々の感動のつぶやきが聞こえてくる時、私は最高の喜びと幸せを感じます。記憶力も徐々に衰えていく一人の高齢者にとって、これからも続けて努力し、学び、創作を続けることは孤独感と無力感から解放されることへと繋がっていくのではないかと思います。一つのことに夢中になり没頭している時は年齢を重ねていることも忘れていきます。

日中友好の立場から見ると、書道、切り絵は民間の草の根交流の懸け橋と道具になると思います。私は引き続き努力し、皆さんにより良い作品を提供していきたいと思います。「世の中のために生きる第二の人生、その喜びは無限である」という言葉があるように・・・。