川添ビイラル氏インタビュー(映画監督)〈FRONT RUNNERシリーズ〉
2023.12.13
「映画〔製作〕は1つの表現方法でもあるし、自分の中にあるものの消化にもなるんですけど、同時にこれまで知らなかったことに気づく時間でもあるんですよね」。そう語るのは、映画監督の川添ビイラルさんだ。インド生まれのパキスタン人の父と日本人の母をもつ川添ビイラルさんは、日本でいわゆる「ハーフ」と呼ばれる人びとの1人である。
「ハーフ」という言葉は、メディアなどを通じてイメージばかりが先行し、私たちと同じ日常を生きる「生活者」としての姿が見えにくくなっている。言うまでもなく、ハーフといっても生活環境やバックグラウンド、アイデンティティは実に多様であり、1つのカテゴリーに括れないほどの複雑さがそこにはある。メディアのポジティブな表象とは裏腹に、戸惑いながら日常を生きるハーフの人びとが確かに存在する。
そのようなハーフをとりまく日常の苦悩や葛藤を主題に、川添ビイラルさんは弟のウスマンさん(脚本・主演)らと共に1つの映画作品を作り上げた。それが『WHOLE(ホール)』(2019年)だ。映画で登場する春樹(サンディー海)と誠(川添ウスマン)は、決して特別な存在ではなく、いわば「どこにでもいる」ハーフである。同じハーフと一括りにされながらも、それぞれの感じ方や向き合い方は全く異なる。しかし、2人の出会いをきっかけに「他者」どうしであった互いの心は交差し、共振していく……。単なるヒューマンドラマの枠におさまらず、2人の主人公を通じてハーフの日常が描かれるこの映画は、この社会に生きる私たちに大切なものを問いかけている。
今回は、川添ビイラルさんを神戸定住外国人支援センターに招き、お話を伺った。ぜひ、想像力をキーワードにご一読いただきたい。
ルーツと仕事
――本日はよろしくお願いします。お生まれはどちらでしょうか?
私は日本です。〔神戸の〕東灘です。
――生まれも育ちも日本ですか?
はい、そうです。
――これまでパキスタンに行かれたことはありますか?
何度か行ったことがあるんですが、住んだことはないですね。14歳か15歳くらいの頃に、向こうで長くて半年ぐらい住んだことがあるくらいです。基本はずっと日本です。
――確かインターナショナルスクールに通ってらっしゃったんですね。それで英語はできると思うんですが、パキスタンではどうやって言語のやりくりをしてたんですか?
パキスタンは基本ウルドゥー語なんですが、過去にイギリスの植民地だったので英語を話せる方が多かったです。なのでその時は英語で通じました。
――その間学校は休学されたんですか?
ちょうど中退して学校に行ってない時期でもあったので、そのタイミングに少し〔パキスタンに〕行ってました。
――お母さんが日本出身の方で、お父さんがインドにルーツのあるパキスタン国籍の方だそうですね。ビイラルさんの国籍は日本でしょうか。
そうですね。はい。
――ご兄妹は弟の川添ウスマンさんですか?
私の弟のウスマンと姉がいます。
――お姉さんもいらっしゃるんですね。ご兄妹でどのぐらい年が離れてるんですか?
弟とは5歳で、姉とは3歳離れてます。
――お父さんのお仕事はどういうことをされていたのですか?
繊維関係の貿易の仕事です。繊維そのものではなく繊維を作る機械ですね。輸出がほとんどだったと思います。日本で使っていないものを海外に輸出するような仕事で。
確か私の父の姉の夫が同じ業界で、それで父も日本に来たんだと思います。〔母とは〕大阪の本町の郵便局で偶然出会ったみたいですね(笑)。
――ご実家はずっと神戸ですか?
ほとんど神戸で、8年前ぐらいに西宮のほうに引っ越しました。なので今実家は西宮になります。
――東京に移ったのはいつ頃ですか?
本当に最近なんですよ。〔2023年の〕3月とかです。
――映画をやるんだったらやっぱり東京になるんでしょうか。
そうなんですよ。業界が向こう〔=東京〕にありまして、仕事もほとんど向こうなので。妻が大阪に住んでいた〔ので〕しばらく大阪に一緒にいたんですけど、本当に仕事がなくて、東京に行くしかないなってことで引っ越しました。
――お連れ合いもご一緒に?日本の方ですか?
はい、そうです。妻とは高校で出会いました。
――今は東京のどちらにお住まいで?
今は世田谷です。大好きですね、世田谷は。正直あまり東京には住みたくなかったんですけど、世田谷は落ち着いているのでそこにしました。
――世田谷区だと三軒茶屋とか、業界系の人が多いですよね。
そうなんです。世田谷に結構映画業界の方々が多いんですよ。周りに仲間とかも住んでいて。
それでもいつかは〔神戸に〕戻ってきたいですけどね。ここで仕事できたら一番良いんですけど。例えば神戸に住みながら映画を作り続けるとか、そういうのが理想ですね。ただ結構有名な監督にならないとできないんですけど。
中退、生活のための現場労働、そして復学へ
――日本生まれ日本育ちということでしたが、ビイラルさんは日本の幼稚園に通ってたんですか?
はい。神戸の聖ミカエル国際学校ってご存知ですか?三宮にあるんですが、クリスチャンのインターナショナルスクールで、小学校までそこに通ってました。
――そこの教育は英語と日本語でしたか?
基本英語ですね。日本の学校とは真逆で、基本英語で日本語は日本語のクラスで勉強するというような所でした。
――そこが小学校までで、中学校は?
中学校は六甲アイランドにカナディアン・アカデミーっていう学校がありまして、そこにちょっとの間通ってました。
――14歳か15歳ぐらいの頃にパキスタンに半年いたというお話だったので、となるとそこを途中で辞めて。
そうですね。父の仕事で半年間パキスタンに行って、〔日本に〕帰ってきてからもしばらく学校に行かず仕事をしてました。
――学校を一度辞めたのは何か理由があったんですか?
リーマンショックですね。その時に父の仕事が駄目になってしまいまして。
――インターナショナルスクールは学費も高いですよね。
高いですし、そのときは普通の学校すらも行けなかったので、とにかく僕が仕事をして支えないといけないなと。
――別の記事で拝見しましたが、たしか弟のウスマンさんは高校を出て工事現場で働いておられたんですよね。ビイラルさんはどんな仕事を?
僕も似たような感じですね。結構いろいろやってました。
――仕事はどうやって見つけてきたんですか?
最初は紹介とか派遣とかで入って、そこからつながりができて別の現場に働きに行くことが多かったです。もちろん自分で探すこともあります。それこそタウンワークとかも使ったりしてたので。本当にいろんな仕事をしましたね。引っ越しもしましたし、解体もしましたし、海辺の工場でも働きました。
――映画『WHOLE』でもウスマンさんが演じる誠は工事現場で働いていますよね。ご自身が実際に経験してきたことだからこそ、工事現場のシーンもあそこまで解像度が高い描写ができたんだと思います。
そうかもしれないですね(笑)。ありがとうございます。
――現場は兵庫県でしたか?
兵庫県が基本多かったですね。一番最初に働いたのも姫路のほうだったと思います。
――それは短期とか、あるいはその日ごとの日雇いみたいな感じでしょうか?
そうですね。日雇いみたいな感じで毎回違う現場に行くこともあれば、1週間はここの現場でってことでしばらく同じ現場で働くこともありました。その時その時によっていろんな場所に行ってましたね。
20歳ぐらいまでそういう仕事をしていて、途中18歳くらいでビルメンテナンスの仕事に移って、そこからはずっとビルメンテナンスの仕事が多かったです。それでやっぱり自分は高校に戻って卒業したかったので、お金をある程度貯めて20歳から単位制の高校に通い始めました。
――日本の単位制の高校に入られたんですか?
はい、そうです。大阪の梅田に小さな単位制の高校がありまして、ビルの一角みたいなところにあるんですけど。いろんな年齢の方が不登校だったりいじめられていたり、とにかくさまざまな事情でそこにいました。そういう子たちが好きなタイミングで来て、静かに自分で勉強して、好きなタイミングで帰ってっていうような学校でした。
20歳になってからそこに行って良かったなと思います。〔そこで〕妻に会えたっていうのはまずその理由の1つです。それと、たぶん僕が16歳で行ってたらほかの方々と仲良くできてなかったかもしれないんですが、僕が20歳だったので、いろんな事情でそこに来ている方々に僕からも寄り添えることができたというか。僕は結構シャイで、しゃべるのが苦手なんですけど、20歳だったので僕からかれらに寄り添うことができて、すごくいい経験になりました。日本でも僕みたいなミックスじゃない方々でも、いろんな理由で学校に行けなかったり、大変な苦労されている人がいると気づけたので、そういう意味で僕はすごく行ってよかったなって思いますね。
ユニバーサルな表現方法としての映像に魅了される
――映画監督になりたいと思うようになったのはいつごろからですか?
僕はもともと小学6年生のときからずっと映画監督になりたかったんです。
――どういうきっかけで映画監督になりたいと思ったんでしょうか?
原点はおそらくなんですけど、僕の父がすごく愛情のある父親でもなく、コミュニケーションもあまり取らないような方だったので、父とそこまで仲良くはなかったし、いい思い出もそれほどないんですね。ただ 〔父が〕海外に出張に行って帰ってくるときには、よくVHSの映画のビデオテープをいっぱい持って帰ってきてくれてたので、それを見たり、もしくは父が映画を見ているのをこっそり角っこで見たりしていたので、その影響があるのかなって思ったりしてます。
実際に映画監督になりたいと思った時なんですが、小6の時に自分たちでカメラを持ってなにかを撮って編集をして、1つの作品にするっていう授業があったんですね。元々私はすごく勉強が苦手だったんですけど、それは自然となんの抵抗もなくできて。それで、初めて作品を人に見せて感動してもらったり笑ってもらったりした時に、映像ってすごくユニバーサルなツールなんだなって思って。言葉が必要じゃないと言いますか、映像の素晴らしさをそこで感じて、これを仕事にしたいってその時初めて思いました。
――ちなみにその時どういう作品を作ったんですか?
ほんとにしょうもないですよ。アクエリアス飲んで走るのが速くなったとか(笑)。子どもだったので今だったらびっくりするぐらいしょうもないものだと思うんですけど、本当に最初の頃はそんな感じでした。
――でも確かにそれだったら言葉がなくても何を言わんとしてるかわかりますね(笑)。言葉がなくても通じるっていうところに、なにかビイラルさんにとって響くところがあったんですかね。
おそらくそうだろうなって思います。
一度学校を辞めた時に、この夢〔映画監督〕は現実的じゃないから諦めないといけないなと思ってたんですよ。でもやっぱり映画を諦めたくなかったので、とにかく高校卒業して専門学校で映画を勉強したいっていう思いで20歳に高校に入り直しました。
――その後単位制の高校は何年間通われたんですか?
えっと、おそらく約二年だったかと思います。結構短い間で単位を取って卒業しました。
――その後ビジュアルアーツ専門学校に進学されて、卒業制作の『波と共に』(2016)がなら国際映画祭NARA-waveとぴあフィルムフェスティバルに入選されますよね。専門学校の卒業と同時に映画業界で身を立て始めたという感じでしょうか?
専門学校を卒業した後もしばらく関西にいました。なんとか関西でやっていけたらと思っていたんですが、やっぱり〔映画撮影の〕現場とかが少なくて、たまに関西の現場に行ったりして、自分の映画も作ってっていうのをやってました。それだけだと生活できないのでその間は英語教師をしていました。私が卒業した単位制の中高生に英語を教えたり、幼稚園とか保育園でも教えていました。
――たまに関西の撮影現場に行きながらも主に英語教師で稼いで、その傍らで好きな映画を追求するっていう生活が続いてた感じですかね?
そうですね。専門学校も同じように仕事をしながら学費を払って、そのまま映画を作ったりたまに映画の現場に行ったりもしてたんですけど。〔卒業後も〕それがしばらく続いて30歳ぐらいになって東京に行こうと思いまして、東京に1回行ったんです。ただ、それが2020年でコロナが始まった頃で、一気に業界がストップしてしまうんですね。
――あの頃は映画館にも行けなかったですもんね。
映画館も行けなかったですし。僕もそもそもコネが無い状態で行ったので、そこからさあコネを作っていこうと思ってた矢先に〔コロナで〕全部止まっちゃったので。最初は大変でしたね。
――関西に再び戻って来られたのはいつ頃ですか?
2022年に私の妻がシンガポールから日本に戻ってきたタイミングで、僕も関西に戻ってきました。妻の実家が大阪だったので。
――この東京での2年間は辛かったかと思います。初めての土地でコロナ禍というのもあって。
2020年は特に辛かったですね。ずっと部屋にこもってた時期が多かったです。僕だけじゃなくてほかにもそういう方がたくさんいたと思うんですけど。仕事がなくなったっていう人もいっぱいいて。けどやっぱり業界の話とかを聞いていると、仕事があった人と全くなかった人っていうのがいたのかなって。最近思うんですけど日本は貧富の格差がますます大きくなってきたような気がします。コロナで失業した人たちのドキュメンタリーを撮ってる方々の話とか聞いても、実際に起きているのに知られてないことがたくさんあるんだというのを感じました。
――弟の川添ウスマンさんも確かアート系の仕事をされてるんですよね?
そうですね。私の弟は今カメラマンを目指してまして、今は映画とかドラマとかドキュメンタリーとかの撮影部で働いています。
――それはビイラルさんの影響が少しあったんですか?
ちょっとあったみたいですね(笑)。昔僕が作品を撮るときに手伝ってって無理やりお願いしてたので、ちょっと影響があるみたいなことは言ってました。
『WHOLE』公開から4年、当時を振り返る
――すでに『WHOLE』が公開されてから4年が経ちますが、脚本ができてから、それを映画にするためにはどのようなプロセスを経る必要があるのでしょうか?
私みたいに自主映画で撮る人はクラウドファンディングとかでお金を集めたりとかする場合もありますし。映画業界で言うとピッチングっていうのがありまして、フィルムマーケットみたいなものですね。そこで私たちはこういう映画を作りたいってプレゼンテーションをして、そこで例えば賞を取ったりしたらお金の支援をするからこの映画を作ってくださいっていうような、こういうやり方もあります。本当にいろんな集め方があります。
――『WHOLE』を作ろうと思ったきっかけについて教えてください。
元々私の弟がハーフを題材にした映画を撮りたいって私に相談してきまして、その時初めて弟と色々話したんですね。こういう映画を作るのってどうなのかな、面白いのかなとか色々話してる中で、確かにこの題材を扱っている映画ってそもそもないなと。ドキュメンタリーはあるんですけど、劇映画がないっていうことに気づいて、それだと私たちが作るしかないんじゃないかって。そこで初めてちょっとした使命感というのが湧いてきて、本格的に映画を作ろうということになりました。なので、きっかけは私の弟です。私の弟があの時にそれを言ってなかったらこの映画はなかったですし、彼はちょうどその頃工事現場の仕事とかをしていて、すごく自分のアイデンティティに悩んでいたと思うんですね。それをどうにか形にしたかったと思うんですよ。僕はそのときそういう葛藤がそこまでなかったので、逆にあのとき弟に寄り添えなかったなと。彼がそういう経験をしてたっていうのを知らなくて、ただそれを形にしたいということで脚本を書いて映画にしました。結果としてはよかったのかなと思ってます。
――2019年に公開されましたが、そうするといつ頃から脚本と撮影を?
2018年に撮影をしたので脚本は2017年から書いてたと思います。1年前くらいから脚本を書き始めていました。
――場所とか小道具とか、色々お金かかるじゃないですか?資金はどうやって集めたんですか?
私たちの場合はクラウドファンディングをやりました。
――差し支えなければどのぐらい集まったんでしょうか?
70か80万くらいだったかな。結構前の話で忘れちゃって…。
――そうなるとおそらく…、足りないですよね?
足りないです。自分たちのお金を少しずつ入れて100万だったと思います。
――100万円…。実際のところそれで映画が撮れるものなんですか?
えっと、撮れないです(笑)。その分大変で、スタッフにはすごく頑張ってもらいました。
――クラウドファンディングで資金を集めて、2018年に撮影を開始して。その後どういったところで上映されたんでしょうか?
商業映画は違うと思うんですけど、最初に映画を作って、映画祭に応募して入選するとそこで上映があるんですね。私たちの場合は初めて上映があったのが大阪アジアン映画祭というところで、そこで上映をして受賞することができたのでニューヨークに招待していただいて、ニューヨークでも上映があったんですね。中編映画だったので私たちは当初映画館で上映するっていうのは全然視野に入ってなかったんですけど、そのつながりで中編映画でも上映していただけることになって、2021年にアートハウスシネマですね。元町映画館とか大阪のシネヌーヴォとかシアターセブンとか、そういったミニシアターで上映していただきました。
――映画館で上映といっても1週間とか2週間程度ですよね。となると『WHOLE』を観ていない方はまだたくさんいらっしゃいますね。
そうかもしれないです。ただ最近はうれしいことに大学から声をかけていただいて上映させていただく機会もあります。去年も大学で上映していただいて、今年の10月にも上映の予定があるのですごくありがたいです。そういう目的で作ったわけではなかったんですけど、学生に見ていただいたり、アカデミックな方々にも見ていただけるというのはすごく不思議な気持ちです。
「どことどこのハーフですか?」――問い続けられるハーフたち
――インターナショナルスクール出た後、ご自身が外国ルーツであることによって差別されていると感じたことっていうのはいつぐらいからありますか?
〔インターナショナルスクールを〕辞めてすぐに工事現場の仕事に行くようになったんですけど、結構厳しい環境でもあったんですね。現場で目立つからこそ可愛がってもらったこともあります。良い時もあればちょっと嫌な時もありました。
僕は一時期ニックネームが「パキスタン」でした。現場で「おい、パキスタン!」って呼ばれてた時期もありました。働いている方々にとっては親しみを込めてそう言ってくれてたと思うんですけど。他にも別の時期には「ビイラル」って名前が読みにくいから「君はマークだ」って言われて、しばらくマークって呼ばれてました。僕も気がついたらマークって言ってましたね。「初めまして、マークです」って。ちょっとめんどくさかったので(笑)。
――ビイラルさんの場合、現場で受けるそういう差別もうまくかわしてというか。
結構流してましたね。逆に弟はすごくそれを嫌がってたと思います。そういうことを言われても流せないタイプだったみたいですね。実際に映画に出てくるんですけど、誠がどことどこのハーフ?なんて聞かれたときに毎回違う国を答えるシーンがあるんですけど、あれは実際に仕事場でやってたらしくて。なぜかというと、なんて答えても〔相手に〕「あ、なるほどね」って言われてたので、じゃあ何言ってもいいやんって思ってたみたいで。だからそういうのも含めてですよね、自分の経験を映画の中に入れたかったっていうのは。
――そういえば誠のお父さんって実際にはどこの国の人って設定なんですか?
実際にあえて設定を決めてないんですよ。どこっていう設定がなくて、春樹も設定がないんですよ。どこの国でも関係ないじゃないですかっていうメッセージでもあります。それって同じ人間であって、聞く必要性もないと思うんですよね、僕には。なのでそこはあえて決めてません。誠は自分なりの消化の仕方をしているっていう設定で。
――日本の人もそんなにいろんな国の事を知らないから、どことどこのハーフって答えたところでそこから質問が続くわけでもなく…。
もちろん純粋に興味を持っている方もいるので、その後質問してくださる方もいるんですけど、自己満足というかただ知りたいだけで聞いたっていうことはよくあります。例えば去年、初めましての人に「ハーフなんですか?」って聞かれてそうですって答えて、「どことどこのハーフなんですか」って聞かれたのでそれに答えたら、「あ、そうなんですね」って言って会話が終わっちゃったんですよ。この映画を作ってからそういうことに余計に敏感になってる部分もあるんですけど、その人はそれを知りたかっただけなんだっていう。それがすごく悲しいというか、違和感を感じますね。その後に例えば興味を持って話してくれるんだったらまだ分かるんですけど、そこで会話が終わってしまうとただそれを知りたかっただけなんだって思ってしまいますよね。たまに言われるのが、日本人同士でもどこ出身とかって話をするし、そういう感覚で聞いてるんだって言われるんですけど、やっぱりちょっと違うんですよね。その後の会話だったり、それを聞いた意味だったりによってすごく受け取り方が変わりますね。
――日本生まれだっていう前提がある方が自然というか。それだけで違いますよね。
本当にそうですよね。逆に気にしないって言う方もいるのはいるんですよね。むしろ会話の入り口になるのでそれでいいっていう人もいるんですけど、基本はやっぱり違和感を感じることが多いので、なんかワンクッションを置いて失礼がないように聞くのが自然だったりするのかなと思います。もちろん自分も気を付けるようにしています。ほかのマイノリティの方々と話すときに傷つけないような言葉で、「これ失礼かもしれないですけど聞いてもいいですか」っていう感じで尋ねてみたりだとか。そのワンクッションを入れるだけで全然違うんじゃないかなと思います。
――ちょっと敏感な話になりますが、パキスタンというとイスラム教徒のつながりでテロリストと結びつけて誤解している人、日本で多いと思うんですよね。そういったご経験はありましたか?
実際にイスラム教なので、すごくマイノリティに感じることはありますね。例えば豚肉とかは食べないですし、お酒も飲まないですし、こういう顔もしてるし。あと日本では宗教って言うだけでよくカルトと一緒にされますよね。だから居場所がないと感じる時がいっぱいありましたね。すごくアウェイな時が多かったというか。
――これまで差別が原因でなんらかの被害を受けて大きな問題になったりということはなかったですか?
そこまではないですけど、普通に警察に呼び止められたりだとかはありますよね。あと僕は髭を結構生やすタイプなんですけど、同じ職場のあまり知らない方に「あ、テロリストやん」って普通に言われたりしたこともありました。その時はびっくりして言葉が出なかったですね。
――やっぱり職質とかで警察に呼び止められることは多いんですね…。
そうですね。以前家の近くのスーパーにプリンを買いに行ってたんですけど、プリンを買ってスーパーを出た時に、警察官2人がうろちょろしてこっち見ていて、なんか警察いるなぁと思ってそのまま家に向かって歩き出して10分ぐらい歩いてたんですけど、ずっと後ろをついて来てたんですよね。
なんだろうなぁと思いながら信号で止まったら、「すみませんお兄さん、ちょっと身分証明書出してください」って言われて、なんでですかって聞いたんですよね?そしたら「大丈夫、みんなに聞いてるんで」って言われたんですよ(笑)。みんなに聞いてるんだったら今まで通って歩いてた人の誰にも聞いてなかったやん!って思ったんですけどね。それだと正直ちゃんと言ってほしいですね。みんなに聞いてるって安易な嘘をつかれるのは逆に嫌でしたね。どう見ても僕を狙ってましたから。身分証を見て、近くに住んでるからってことですぐに帰してくれたんですけど。東京は〔外国人に対して職務質問が〕多いって聞いてたんですけど、まだ来てから1回もないですね。
オルタナティブな「ハーフ」表象の可能性
――「ハーフ」ということについてもう少しお伺いしたいんですが、テレビで「ハーフあるある」とかよく見かけたりしますよね。ハーフの表象についてどういったものが問題だと思いますか?
結構自虐ネタをされてる芸人さんとかも多いじゃないですか?それが別に問題ないって思われがちですよね。「ハーフだから英語喋れる」とか「ハーフはモテるから羨ましい」って言う人もいたりしますし。そういうのは全部ステレオタイプであって、ハーフといってもいろんな人がいます。
〔問題は〕ほんとにいっぱいありすぎると思うんですね。ただどこから来ているかというとやっぱりメディアが多いなってすごく思います。今だと結構スポーツ選手とかも多いんですけど、有名な〔ハーフの〕方がドラマとか映画とかコマーシャルとか出たりとか、テレビ番組に出たりとかよくされるじゃないですか。そのイメージが強いと思うんですね。やっぱりメディアの力ってすごくあるんですよ。私は既存のそういうイメージとは違うもの、ほんとに一般的な方々を描きたかったのでこの映画を作ったんですけど、まだまだそういうステレオタイプっていうのはたくさんあります。
――メインストリームとは違う表象を描きたいということですね。そういうものが『WHOLE』にも表現されているんだと思いますが、ビイラルさんが映画の中でこのシーンはこんな意図があった、こういうことを描きたかったというものがあれば教えてください。
基本はお客さんに自分で答えを探して欲しいという思いがあるんですけど、私としてはできるだけポジティブに描きたかったんですね。もちろん映画の中ではっきりとした言葉として主張されているわけではないので、それを感じ取っている方もいるかもしれないし、感じとっていない方もいるかもしれないんですけど。〔映画で登場する〕春樹はどちらかというとすごく自己中心的じゃないですか、簡単に言うと。ただ最後の〔電車に乗っている〕シーンで初めて社会に生きている自分以外の人間を「見る」ことができるようになるんです。いつも「見られてる」と感じていたのが、自分からほかの人たちを「見る」ことができるようになる、ちょっとした成長の始まりなんですね。あのシーンは周りにいろんな人が、色んな生活、いろんなバックグラウンドを持ってるんだろうなあって彼の中で考えている瞬間で、となりには仁美っていう友達の存在がいる。そういうことに気づくシーンだったので、それが伝わってほしいなという思いで作りました。
――映画の中で春樹はなぜ「ハーフ」という言葉を何度も訂正して「ダブル」と言っていたんですか?
映画を作る前に弟とリサーチを結構しました。自分たちの話だけでなく、ほかのハーフ、ミックスの方々の話も描きたいっていう思いがあったので。ドキュメンタリーを見たり本を読んだりしましたし、周りの方々にも話を聞いたんですが、そこで自分はハーフじゃなくてダブルって呼ばれたいっていう人たちに出会いました。春樹の中ではハーフと呼ばれたくない。なぜかというと「ハーフ」っていうのを彼は「半分」と捉えてるからなんですね。こういう人も実際にいます。一方でそれを全然気にしない人たちもいます。その複雑さをそのまま表現したかったんです。
ただ、ハーフとかダブルとかミックスとか、そういうラベルの話をあんまりしたくなかったんですね。それは他人が決めつけるようなものではないんですよ。こう呼びましょうとか、こういう言葉を使いましょうっていう問題じゃないと私と弟は思うんですよね。だから言葉ではなくて、人が人として見るようになればいいなって、そういうラベルすらなくなればいいのになっていう思いはありますね。
現在執筆中の脚本について――ペットの殺処分、在日ムスリム家族の日常
――映画監督に労働時間という言葉が適切かどうかわかりませんが、起きてる時は常に働いてるという感じでしょうか?
そもそも映画監督になる道って本当にいっぱいありまして、映画監督って言っても商業映画をたくさん撮っていてすごく売れてる映画監督もいれば、インディーズしか撮ってなくて売れてない映画監督もいっぱいいるので、ほんとに人それぞれだと思います。僕はまだ商業映画も撮ってないですし、長編映画もまだ撮ってないですね。なので僕の場合だといろんな映画の現場で演出部の仕事をしたり、たまに自分のディレクションの仕事をしたりしてやってるので本当にフリーランスで、働く時間も日によって変わってきます。
――現場の仕事があるときはガッツリ働くし、ないときはちょっとリラックスして。
まさにそうですね。ただリラックスしすぎると妻に怒られるので。脚本書きなさいって言われて今頑張ってます(笑)。
――ちなみに今はどういう脚本を書いておられるんでしょうか?
今書きたい脚本が2つありまして、それが両方長編なんですけど。1つは私にしか作れない映画だと思っていて、いわば『WHOLE』に似ているようなものではあるんですが、もう1つが今自分の中ですごく書きたいテーマなので、先にこっちを書いちゃってます。
その今書いている脚本なんですけど、日本って先進国と言われているわりにはまだいろいろ遅れているところがあるじゃないですか?1つ僕昔から気になってたのはペットの殺処分。これがひどいんですよ。この国っていまだに普通にペットショップに犬とか猫とかを売っていて、売れなかったら捨てるじゃないですか。それがすごい嫌で、なんで日本ってこうなんだろうっていつも思うんですよね。どうにかそれを映画の背景にしたくて、今〔脚本を〕書いてます。背景がそれで、メインのストーリーはストーリーとして別にあるんですけど、そういうものが伝わってくるような映画を撮りたいなと今思ってます。
――脚本を書く上で事前調査とかもしておられるんですか?
今リサーチをしつつ脚本を書いています。映画というのはフィクションなんですけど、ちゃんとリアリティに基づいて作らないといけないと思っているので。例えばドイツだと今ペットショップがないんですね。フランスも来年からは犬と猫はペットショップで売れないです。そういう法律を国が定めているんですよね。日本では何が起きているのかというと、毎日70匹ぐらい全国で殺処分されてますし、ペットショップではお金さえあれば誰でも買えるし、結構簡単に売ることもできるんですよ。それがすごく不思議なんですよね。僕の中ではなんでなんだろうと思うんです。
今DVの問題とかもあるじゃないですか?児童の虐待の問題とか、これとちょっと繋がってるのかなと思ったりするんですよね。動物を大事にできない人間っていうのはほかの人間も大事にできないと思うんですよね、僕は。子どもが動物に虐待したりっていうのも、あくまで傾向としてですけど、その子どもが自分の両親に虐待されてることが背景にあるっていう研究結果もあります。僕も今リサーチしてるんですけど、そういうところを描けたらいいなと思っています。
――背景にそういったペットの殺処分を下敷きに置きつつ、ストーリーは別として必要なわけですよね。そういうのを今一生懸命考えてらっしゃるんですね。
そうですね。ダイレクトにやってしまうといわばドキュメンタリーでもいいってことになるので。ちゃんと映画っていうのはストーリーがあって、どうやって見ている人の感情を動かすか、感動させるかっていうのを考えていかないといけないので、日々悩みながら書いています。
――ネタばらしになるかもしれませんが、先ほどご自身じゃないと作れないとおっしゃっていたもう1つの脚本について、教えていただけませんか?
先ほどちらっと話したんですけど、日本って宗教に対する見方というか、宗教とカルトっていうのが一緒くたにされたりしてすごく悪いイメージがあったりするじゃないですか?それもすごく大きなテーマだなと思ってるんです。じゃあ例えば日本で生きてるムスリムの家族を描いている映画があるかと言いますと、ないんですよ。もし作るとしたらそれは私じゃないかなって思ってまして(笑)。まだ脚本ができてないのでわからないんですけど、必ずしもコミュニティの中って全部きれいごとでは無いですし、コミュニティの中にも本当にいろんな人がいます。それをできるだけ自然に描きたいと思っているところです。ある意味『WHOLE』に近いかもしれないですね。『WHOLE』はもう少し訴えるものが多かったかもしれないですけど、〔今考えている脚本は〕なにかを訴えるというよりも、そこに生きている人たちをそのまま見せるっていうやり方にしたいなって思ってます。まだ脚本ができてないので頭の中にしかないんですけど。観る人にとって何か視野が広がるような、そういう映画になればいいなと思っています。
想像力について――まだ見ぬ他者との出会いに向けて
――差別などの問題について、ビイラルさんご自身の生活体験とか日常生活の中で考えてきたことが少なからずあると思うんですけど、映画製作を通じてより意識的になったというか、新たな気づきになったことって結構ありましたか?
それは結構ありました。リサーチをする中で僕はどちらかというとそこまで〔アイデンティティについて〕気にしてこなかったタイプの人間だったので、こんなに敏感になって傷つく人もいるんだっていうことに気づいたので、そういうのもしっかり描きたかったんです。映画を見ていただいた方で、春樹がなかなか理解できない人もいると思います。なんでこんなに敏感なんだとか、なんでここまで気にしてるんだとか、そういうふうによく聞かれるんですけど、実際にこういう人もいるんですね。彼のバックグラウンドについては映画でそこまで描いてないんですけど、もしかしたら子どもの時にいじめられてたかもしれないですし、そういうことを想像してもらいたいんです。初対面で人と出会うときって、その人がどういう人生を生きてきたのか全く知らないじゃないですか。どういうことを経験していて、どういう葛藤とかどういう傷を負っているのかっていうことを知らないけど、私たちはそれを想像することができるし、相手を傷つけないように気をつけて話すことはできますよね。
最近、在日コリアンのフィルムメーカーの方とお話する機会がありました。いろいろ話を伺っている中でその人が言ってたのは、この国に住んでいてたまにすごく怖くなると。これって私は経験したことないんですね。なぜその方がそういうことを言ったのかというと、つい最近もウトロで放火があったように、やっぱり在日コリアンに対するヘイトクライムがあるわけですよね。私は〔当事者として〕経験していないので最初「日本に住んでいて怖くなる」という言葉の意味をすぐに理解することができませんでした。けれどもそういう話を聞く中で、初めてその人の気持ちも分かるし、こういう経験を日本でしてきたんだなっていうことを知ったので、学びがたくさんありました。そういう意味でも本当にこの映画を作ってよかったなって思いますね。
――メディアの話を先ほどは伺いましたが、ハーフをとりまく状況について、政府や行政に対して思うことってありますか。
政府や行政に対してですか?うーん…、それはあまり考えたことがなかったですね。どちらかというと政府っていうよりも社会に生きている人たちに見てほしいっていう思いで映画を作ったんですね。政府にこうしてほしいっていうのはどちらかと言うとあんまりないですね。もちろん違和感はありますよ?例えば国籍で言うと、ほかの国では複数国籍を持てたりするけど日本はそれができないじゃないですか。そういった制度に対する違和感とかはもちろんありますけど、この映画に関しては政府に対してこれを変えてほしいとか、こうしてほしいっていうのはなくて、どちらかというと社会に生きてる人間がどうやってお互いと接していくかについて一緒に考えてみたいっていう思いですね。
映画から離れて考えてみたときにも基本的に考え方は同じで、個人的にはもちろんこれからの世代が生きやすく、差別的な経験をしなくなるってことが理想だと思うんですけど、それは政府だけに求めるものでもないのかなって思ってしまいますね。上からの規制だけで変わるものじゃないと思うんですよね、やっぱり。
――政府じゃなくて自分たちが自発的にっていう、その姿勢もすごく大事だと思います。
その関連で最近知り合いに聞いた話で、〔知り合いが〕働いている企業のきまりで「私はLGBTQをサポートしてます」っていうようなアイコンを自分のメールに入れないといけないっていうのがあるらしくて。それって人に押しつけるものじゃないですよね(笑)。もちろんサポートしてますって表明するのはとても良いことだと思いますよ?ただなんかこういうのって「こうしなさい」って言われてやるものじゃないと思うんですよね。最初に理解があると思うんですよ。第1のステップに理解する、相手のことを知るというのがまずあると思うので、政府とか企業がこうしなさいってやる前に、まず1人ひとりの理解がないといけないと思うんですよね。
――最後に、真の多文化共生に向けて、この社会に生きる私たちができることってなんだと思われますか?
似たような質問をよくされるんですけど、僕の回答は案外シンプルかもしれないです。相手を知ること、ここからはじまると思うんですね。さっきもお話させていただいたように、本当にそれが最初のステップです。その人がどういう人で、どういうものを信じているか、どういうバックグラウンドなのか、そういうのを知らなかったら人間って相手を受け入れるのが難しいじゃないですか。じゃあ何をしないといけないのかっていうと、やっぱり知ること、そして寄り添うことだと思うんですよね。それってミックスとか外国ルーツじゃない人同士でも必要なことだと思います。そこで初めて思いやりとか、相手のことを助けたいっていう感情が生まれてくると思うので、本当にシンプルかもしれないですけどそこだと思うんですよ。やっぱり私たち、人生生きていて自分のことで精一杯な時ってたくさんあるじゃないですか。そういう時って相手を知る、寄り添うってことをついつい忘れてしまいますよね。だからそういうことをもっと意識していきたいです。自分がやりたいっていうのもありますし、社会にも〔同じような試みが〕もっと広がっていけばいいなと思っています。
ビイラルさんは私たちに色々なことを話してくださった。ご自身のルーツのこと、映画監督になるまでの道のり、『WHOLE』のこと、「ハーフ」であるという理由で日常的に遭遇する出来事、現在執筆中の脚本のこと、他者を知り、寄り添うことがいかに大切かということ。
ビイラルさんの語りを読んでいくと、そこに通底しているのが「想像力」であることがわかるだろう。彼の体験と実践は、想像力こそがまさに共生社会をめざす私たちの手がかりとなるであろうことを示唆してくれている。